2010年11月5日金曜日

中共、ウイグルに侵攻

◆膨張国家、中国の怨念 その25

   中共のチベット侵略の話、いかがだったでしょうか。6歳の少年を政治犯に仕立て上げる話など書きたいことはまだまだありますが、ウイグルも書かなければなりません。中共はウイグルにも侵略の軍を推し進めたのです。ウイグルというと皆様は何を思い浮かべるでしょう。NHKのシルコロードをご覧になった方はトルコ系の風貌をした美しい女性が弦楽器を奏でたり、一枚布の円形の帽子を被った中年男性がナンを焼く姿などを思い浮かべるかも知れません。アジア民族とはちょっと風貌が違うインド・ヨーロッパ語族の民族がウイグル人なのです。ウイグル人が現在の中華人民共和国支配下でもっともたくさん住むのが新彊ウイグル自治区なのです。なぜ中国がインド・ヨーロッパ語族の人たちを支配下に置くのか、それは共産中国が国共内戦後の1949年に突如、半独立国家となっていた新疆省(内戦前は形式的に中華民国に所属)に侵攻。共産党支配下の中国に組み入れ、1955年に新疆ウイグル自治区を設置したためなのです。

   新彊省は中共に侵攻されるまでは中華民国に属しながらも、漢民族の省主席の下に半独立的な領域支配が行われていました。しかし漢民族の支配をよしとせず1933年と1944年の二度にわたって土着のウイグル人を中心としたムスリム(イスラム教徒)によって民族国家東トルキスタン共和国成立が図られましたが、漢民族の力が強く独立はできませんでした。

   ウイグルの歴史は複雑です。もともとはトルコ人の土地を意味するトルキスタンと呼ばれ、現在の中国国境を越えた幅広い地域を領有、中央アジアの文化圏に属してきました。ウイグル人を中心とした諸民族が国家を建ててきましたが、漢代と唐代には、中国の直接支配下に置かれた時期もありました。唐代後期、ウイグル帝国が成立、9世紀、ウイグル帝国が瓦解したのちも、ウイグル人の残存勢力による支配が続きました。13世紀、モンゴル帝国の勃興によりその支配下に組み込まれ、やがて自立します。

   トルキスタンの東部、東トルキスタン(現在の新彊ウイグル自治区)は18世紀、満州人の建てた清の支配下に入りますが19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、清朝の支配は一時崩れます。しかし再征服されてしまいます。ウイグル、東トルキスタンは独立したり支配されたりの連続だったのです。



   しかし、1949年の中共による侵攻は悲惨な結果を生みました。侵攻直後に開始された大躍進政策とその影響による飢饉のため、中国全土では数千万人ともいわれる、大規模な死者が出たのです。当然、辺境のウイグルの経済及び住民生活もより多くの大打撃を受けました。情報が統制されているため明確なことは分かりませんが、多くの餓死者が出たようです。

   1962年には、中国共産党による支配に絶望した国境地帯の住民7万人以上がソ連領内に逃亡しました。また、1966年には自治区内に文化大革命が波及し、モスク、伝統文化の破壊や漢人紅衛兵同士の武装闘争により、混乱に拍車がかかったのです。2009年にはウイグル人と漢民族の対立が激化し、ウイグル騒乱が発生。武装警察が発砲し、世界ウイグル会議によると死者800人、中国当局によると死者156人となる惨事となりました。

   これらの中共による対ウイグル政策は新彊民族浄化作戦と呼ばれ、東トルキスタン全体でこれまで100万人の死者が出たといわれています。少数民族を虐殺することが共産主義の本旨なのでしょうか。

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