2010年11月1日月曜日

ダライラマ法王、インドに亡命

◆膨張国家、中国の怨念 その22

   1959年2月、中共はダライラマ法王を、3月10日に開催される観劇に招待しました。その際、警備をつけないようにという注文をつけました。これを聞いたラサ市民の間に法王が拉致されるのではないかという不安が瞬く間に広がったのは当然です。3月10日当日、3万人のラサ市民が市の中心部にあるノルブリンガ宮殿に集結、「チベットに独立を、中国人は帰れ」とシュプレヒコールを叫びました。法王は観劇への出席を取りやめることにしましたが、大群衆は翌日もその翌日もノルブリンガ宮殿を去りませんでした。法王を敬愛し守ろうとする意欲が強かったのです。これに対し中国共産党は軍を増強し、事態は一層緊迫の度を増しました。3月16日、ダライラマ法王はついに決意して、一般庶民に変装してノルブリンガ宮殿を脱出し、インドへと亡命したのです。

   法王不在が分かった3月19日、ついに大惨劇が起こりました。中共軍は事実上非武装のノルブリンガ宮殿に一斉に砲撃を開始。集中砲火は41時間継続し、宮殿は蜂の巣のように破壊され、脱出できないまま何万人という民衆がその場で虐殺されたのです。3月28日にはチベット政府が解散させられ、中共が勝手につくったチベット自治区準備委員会に統治されることとなったのです。中共が押し付けた17条条約さえ完全に無視されました。その後も中国共産党、中共軍による残虐行為は絶え間なく続きました。1959年4月には「民主改革」運動が始まり、ありとあらゆるチベット人が摘発の対象となりました。チベット人は出頭を命ぜられ、投獄、殺害されました。比較的軽いものでも数ヶ月間の洗脳教育を受けさせられました。

   以下はダライラマ法王が難民からの報告をもとにまとめた資料の抜粋です。

   「彼ら(チベット人)は銃殺されたばかりでなく、死ぬまで鞭打たれたり、はりつけにされたり、生きながら焼かれた。溺死させられたり、生きたまま解剖されたり、餓死されたものもあった。絞め殺されたり、首をつって殺されたり、熱湯によるやけどで殺された。また、あるものは生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたり、首をきられたりして殺された。こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。村人たちはそれを見物するように強制された。自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された」。

    これが共産主義を標榜する党、軍のすることなのでしょうか。共産主義とは無縁の帝国主義そのものです。


   前掲を除くここまでの引用、参考資料

東京新聞 各号
サイト「花崗岩のつぶやき」
webページ「現代コリア」
サイト 「大紀元」
サイト 「現代中国ライブラリィ」
サイト 「歴史と国家」雑考 (辻本武)
共同通信ホームページ
サイト 「打倒中国共産党」
『中国はいかにチベットを侵略したか 』 マイケル・ダナム著  講談社インターナショナル
サイト ダライラマ法王日本代表部事務所

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