2010年11月2日火曜日

チベットで民族同化政策

◆膨張国家、中国の怨念 その23

    中共の政策はチベット人を弾圧するだけにとどまりません。中国本土から大量の漢人の移住が始まったのです。漢人の移住は漢人にとって強制的なものだったか、自主的なものだったか言論が統制されているため、その真相は分かりませんが、多分、その双方が事実だったようです。中国本土で圧政のため食えなくなった人々が移住してきたことは確かです。彼らは共産党の庇護の元、チベット人の住宅、商店、農耕地、放牧地を取り上げ、自分のものにしたのです。特に殺されたチベット人の家は格好の住家で、残されたチベット人の妻子を追い払い、住み着きました。

   住宅、農地、放牧地などを奪われた人々はチベット高原やラサ市内をあとどもなく放浪し、多くが餓死人口が減りました。それに対し雲南省、青海省などに強制的に編入されたチベット東部から次第に漢人人口が増え、今はラサ市内でも漢人人口が過半数になっています。チベット西部の一部を除いて多くの地域がチベット人より漢人が多くなってしまいました。

   この漢人流入政策は「民族同化政策」と呼ばれ、現在の人口比ではチベット人650万人に対し、漢人750万人と漢民族の方が上回るという結果になっています。文字道理「植民地化」政策なのです。

   こうしたなか発生したのが1966年5月にチベットに押し寄せた文化大革命の嵐でした。8月には紅衛兵(ほとんどが漢人)の数は1万人に達し、最盛時には十数万にもおよびました。漢人紅衛兵は数少なくなっていたチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、通りの名称を変更し、個人の家に入り込んで祭壇や民俗家具などをかたっぱしから壊したり奪っていきました。民族衣装を着ることもペットを飼うことも香をたくことも、伝統の模様を描くことも全て禁止されました。経典、写本、彫像などはあとかたもなく破壊され、焼かれました。チベット語自体も弾圧の対象となり、会話以外ではありとあらゆるチベット語の書物、教科書、宗教経典が廃棄されたのです。チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と共産党の宣伝文書ぐらいになってしまったといいます。全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、罪名を書いた板を首かけられ、市内を引き回されました。

   悲劇はチベット人だけではありません。遊牧民の色彩の強いチベット人は優しい民族であり、犬など多くのペットを飼っていました。それを紅衛兵は片っ端からチベット人から奪い、なんと食べてしまったのです。漢民族はもともと食犬の悪習がありましたが、文化大革命でも遠慮なくこの悪習を実行したのです。何の罪悪感もなかったことでしょう。

  チベットのありとあらゆるものが破壊されたこの悲劇の大混乱は10年間も続いたのです。


@明日3日は水曜日。水曜日は作務が忙しく休刊をお願いしています。3日付けはお休みです。

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