2010年10月23日土曜日

腐敗体質に気付く

◆膨張国家、中国の怨念  その14


   共産中国の腐敗のすさまじさをご理解いただけましたでしょうか。中国共産党も馬鹿ではありません。国家体制の根幹を揺るがす、中国全体を覆ったこの汚職体質に対し、おそまきながらも倫理の低下が国家を崩壊させることに気づいたのです。そこで考えました。どうすれば腐敗、汚職体制を駆除できるのかを。

   いかなる国家もその根底に一定の道徳なり倫理体系なりが無ければ健全な社会は維持できません。道徳が無ければ人間はケダモノであり、倫理無き規範無き社会は弱肉強食の世を現出させます。欧米諸国では国家の基底にキリスト教がありました。日本では神、仏、儒の複合倫理規範がありました。かつての中国では儒教が倫理道徳そのものであったのです。

   しかし中国共産党は文化大革命で古来からの伝統倫理、儒教を徹底的に排撃しました。儒教関係の多くの文物が破壊され、焼却されました。儒教の根絶は必然的に体制の腐敗を促進します。シンガポールの初代首相李光耀は、その自叙伝の中で 「中国の汚職や腐敗の根源は、文革時代に起きた正常な道徳的基準の破壊である」と指摘しています。人治の国である中国にとって犯罪や汚職に厳罰でのぞむ法制度の整備は急務ではありますが、どんなに緻密に作られた法制度も内的な規範である道徳が真空状態では機能しないことにやっと党は気付いたのです。

   彼らは儒教の復活を促進させ始めました。

   しかし儒教を復活させて約30年、でも汚職は絶えませんでした。儒家理論の最大の欠落は清廉の理論が欠如していることだ、と気付かなかったのです。その理論上の欠落が社会の際限のない腐敗の原因となっているということを、党も経営者も官僚も社会も一般民衆もすべてが理解できませんでした。欧米諸国や日本では基盤が精錬であるからこそ社会が成り立っているのです。

   たしかに、儒教というのは「四維八徳」(四維=礼・義・廉・恥、八徳=仁・義・礼・智・忠・信・孝、悌)が基本です。このなかの「廉」というのが、じつは儒教では理論化されていないのです。「廉」は要するに「清廉潔白」だから、素直に捉えれば汚職などもってのほかとなりますが、いかにして汚職を防ぐか、という具体的な方法論にまで理論化されてはいないのです。これが儒教理論の大きな欠点だといえるでしょう。

   儒教思想のなかでいちばんコアの部分と言うのは、天子という有徳者が統率者になって、万民を徳化するということに尽きます。たしかにこれが実現すれば、「廉」の理論化などは必ずしも必要ないでしょう。しかし実際には、徳のある天子なんていませんし、あってもその感化力には限界があります。仮に歴代の天子が有徳者だったとしても、側近すら徳化できたためしがないのです。宦官、廷臣といった側近にすら感化力を発揮できず、ほとんどやりたい放題にさせて国政を乱すのが王朝末期のパターンです。天子の徳は側近にすらおよんでいないのだから、あまねく万民を徳化するなどという理論はなおさらおかしい、ということになります。

  そして、現実に官僚や官僚に支配された社会が従うのは清廉の倫理ではなく、「権」と「利」の論理です。官僚の職務を考えてみれば分ることですが、「権」がなければ官僚職務は遂行出来ないのです。そして「権」は「利」と分かちがたく結びついていますから、清廉の倫理が入り込む余地はありません。官僚、そして官僚に支配された社会の行動原理は「権」と「利」の論理によって成り立っているのであって、天子(現代中国では共産党)による徳化や、曖昧な清廉の倫理で動くものではないのです。

   中国共産党はこの部分に気づかぬまま儒教化を推し進めています。

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