2010年10月24日日曜日

儒教は絶対者が不在

◆膨張国家、中国の怨念 その15


  (儒教において)「廉」は要するに「清廉潔白」だから、素直に捉えれば汚職などもってのほかとなりますが、いかにして汚職を防ぐか、という具体的な方法論にまで理論化されてはいないのですーと昨日、書きましたら「どう理論化されていないのか、よく分からない」とのご指摘を受けました。

   私も一読しまして、その通りだ、と思いました。そこで本日は「儒教はいかにして汚職を防ぐか、という具体的な方法論にまで理論化されてはいない」ことを具体的に書いてみたいと思います。


   欧米を中心にしたキリスト教国では「人間は神によってチリ、アクタで作られた」と信じています。神の前では人はチリ、アクタと同じ存在なのです。ということはすべての人間は神の前では上下のへだてなく平等です。「そんなことを言ってもキリスト教社会ではかつて奴隷制や農奴制があったではないか」という反論もあります。白人は黒人を人と認めず、動物として扱いました。だから奴隷制が成立したのです。これは後に否定されました。印刷技術が発明されて聖書を庶民でも読むことが出来るようになり、カルビン、マルチン・ルターなどによる宗教改革で農奴は否定され、社会の平等化が進みました。

   キリスト教では「モーゼの十戒」のように「人を殺す勿れ」など具体的に清廉潔白を要求します。これは一種の法です。人間に対し秩序を保つための法律と法律を守らせるシステム、つまり理論があるのです。これが欧米の社会規範となったのです。

   日本では神仏儒の混合宗教の中、神、仏という絶対的存在があり、その前では清廉潔白が必要となります。日本的儒教では天は天空にあるとみなされ、天により拘束されるのは天子だけでなく武士、庶民を含めた社会全体とされました。私が子供のころ何か悪いことをすると「お天道さまが見ているよ」と叱られました。お天道さまとは天のことです。神仏儒の3者は常に人々の行動を見ており、その最終審判はいずれ下される(たとえば閻魔様のように)というわけです。「良いことをすれば富者に、悪いことをすれば畜生に生まれ変わる」という輪廻転生の思想もありました。だから日本社会は清廉潔白を人々に要求します。

   ところが中国、韓国の儒教は天は何者をも拘束せず、ただ天子が徳を失えば易姓革命で次の王朝に交代させられる、ということだけです。前掲を繰り返しますと、「官僚や一般庶民を徳化するのは天子の役目で、天は関与しません。しかし実際には、徳のある天子なんていませんし、あってもその感化力には限界があります。仮に歴代の天子が有徳者だったとしても、側近すら徳化できたためしがないのです。宦官、廷臣といった側近にすら感化力を発揮できず、ほとんどやりたい放題にさせて国政を乱すのが王朝末期のパターンです。天子の徳は側近にすらおよんでいないのだから、あまねく万民を徳化するなどという理論はなおさらおかしい」ということになります。

   天子が清廉潔白を求めても天子の監視能力は限界がありますから官僚はそのスキをついて自分の得になる利権を求めます。天からは監視されませんから好き放題のことをします。これが中国固有の汚職体質となるわけです。「簾」が理論化されていない、というのはそのことを指すのです。

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