2010年5月31日月曜日

人口、気候変動で大きく変化

  ◆温暖期で約27万人

 先日、ある宮司さんと話をしていましたら縄文時代の人口は「16万人ぐらい?」とおっしゃていました。まさにその通りなのです。現在の日本の人口は、約1億2000万人ですが、縄文時代の人口は縄文時代前期は約16万人、中期は約27万人、後期は約16万人、晩期は約9万人と推定されています。末期は約7万5000人という学者もいます。遺跡数の変化などで推定されているのです。文明の高度化で人口が増えてきてもいいのになぜこのように変化するのでしょう。

 それは地球の気温と大きく関連があります。縄文前期は氷河期、小氷期の後遺症で寒く、極地では巨大な氷床が存在し、氷の分だけ海は後退していました。いわゆる縄文海退です。北海道や樺太が大陸と地続きだったといわれます。寒さで日本列島が養えた哺乳類数が限られていました。それが中期になると地球が温暖化、極地の氷が溶け、海面が上昇、縄文海進が起こったのです。対馬暖流がオホーツク海まで流れ込み列島の気温が上昇、照葉樹林や落葉樹林が日本を覆いました。暖かい気候から当然、人口がふえました。ところが縄文後期、晩期には再び地球の寒冷化がおこり極地の氷が増大、縄文海退となりました。人口が10万人以下となったのです。

 弥生時代、有史時代になっても小規模ですが温暖化、寒冷化の繰り返しがありました。現在、地球は温暖化しているといわれますが、哺乳類にとっては1面、幸せなことなのです。これについてはいずれ問題提起をします。

2010年5月29日土曜日

犬を食べる弥生人

 ◆集落同士で戦争

 縄文人が犬といっしょに幸せな日々を送っていた縄文末期、黄海、東シナ海,対馬海峡を越えて一群の人々が九州に上陸しました。いわゆる弥生人です。弥生人は水稲を日本列島に持ち込むと同時に犬も連れてきました。現在では弥生犬と呼ばれています。

 弥生犬はやや大型で脚も長く、彫りの深い顔つきだったようです。ところが、その犬は縄紋犬と違って猟犬ではなかったのです。なんと食用の家畜として飼われていました。弥生時代の遺跡で見つかる犬の骨は、バラバラになったものが多いのです。中には解体の痕跡が残っているものもあります。埋葬もほとんどされなくなりました。狩猟民には貴重な存在であった犬も、農耕民にとっては食用犬としてしか役に立たなかったののでしょうか。

 食用の家畜としては、犬のほかに豚も持ち込まれたのですが、豚の飼育はいつのまにかされなくなりました。犬は食用以外に番犬役もあったとみられ、その意味で存在感があったのでしょう。弥生の集落は互いに敵対し、環濠や高地性集落(高いところに集落を設け、敵の侵入を防ぐ)を設けるなど緊張感が高かったため、犬は警報役として尊重されたようです。食用家畜を飼育する文化は、その後日本にはあまり根づかず、後になって鶏が飼われた程度です。


 弥生人と共にやって来た犬は、やがて縄紋犬と交配しました。縄文犬の色合いを濃く残しているのが柴犬、北海道犬、琉球犬のどちらかというと小型犬で、紀州犬、秋田犬、甲斐犬、四国犬のようにやや大型犬は弥生犬の遺伝子が強い、とみられています。

 それにしても犬を食う弥生人はなんとなくいやですね。それも縄文人を追っ払っただけでなく、集落同士が戦争するなんて縄文の良き伝統を破壊してしまいました。縄文人が知らなかった槍、剣、刀などの武器を弥生人は持っていたのです。

 <お断り>30日(日)は岡山へ出張します。残念ながら当ブログはお休みさせてください。

2010年5月28日金曜日

大切に埋葬された縄文犬

 我が家では犬を飼っています。柴犬とコリーの混血らしく、顔はまさに芝とコリーのいいとこどり、耳は柴、尻尾は捲くれているところが柴犬でふさふさしているところがコリーで、かわいいことこの上ありません。夜は私と妻の間をいったりきたりで、時には奪い合いになることも。自慢話をしてしまいましたが、その柴犬こそ縄文犬の子孫なのです。

 ◆柴犬の祖先

 縄文時代の日本列島に犬がいました。全国の縄文遺跡からはたびたび犬の骨が出土することから縄文人が飼っていたのです。古いものではでは縄文時代早期(約8,000年前)の犬の骨が見つかっていますので、縄文時代の開始当初から縄文犬が飼われていたようです。

 犬の骨の中には、まとまって出土する場合があり、人間と同じように埋葬されていたことから、死ぬと墓を作り、魂をあの世に送っていたようです。中には人間にだかれるようにして一緒に埋葬された例もあります。縄文時代には犬以外の動物には墓を作りませんでしたので、犬は縄文人にとって特別な動物であったことがわかります。縄文犬は狩猟犬だったようですが、骨折もみられることから果敢に動物に立ち向かったことが考えられます。狩猟中に骨折した犬も、自然治癒したものがあり、役に立たなくなっても大切に飼育されていたらしいのです。この犬たちは人々にいかに愛されてきたかということがよく分かります。。仲の良い大事な友達、あるいは家族の一員と言ってもいいのかもしれません。

 喜んでで野山を飛ぶように走って猟を手伝い、里にあっては家族の一員として人々との共生関係を保ち、愛され大切にされてきた縄文犬。動物考古学の国立歴史民俗博物館の西本豊弘さんは、出土した骨の特徴から、縄文犬の姿を「体高は40cmほどの小型犬で、四肢が太く、短い、がっしりとしたたくましい体つきで、前頭部にくぼみのないキツネのような顔立ち」と推定しています。柴犬の祖先と言えます。縄文は犬にとっても人にとっても幸せな時代だったのですね。

2010年5月27日木曜日

南太平洋に縄文土器

◆成分は青森県産

昨日までのブログで縄文時代の交易は日本列島各地に及んでいたことを書きましたが、実は南太平洋にまで及んでいることが分かっています。ただ学会は事実関係は認めつつもあまりにも奇想天外な事柄であるため、半分無視しているのが現状です。

 事実はこうです。今から半世紀ほど前、日本から6,000kmも離れた南太平洋上のブアヌアツ共和国エファテー島の遺跡で、フランスの考古学者ジョゼ・ガランジェ博士が、この地方から珍しい土器を13~14片を発見したと論文で発表しました。それを見たハワイ・ビショップ博物館の篠遠喜彦博士がそれは「縄文土器」であることを指摘されました。さらに東北大学名誉教授芹沢長介博士が詳細に追跡調査の結果、日本の縄文時代早期の円筒下層C式・D式に非常に似ている、と研究成果を発表しました。

 その後1993年に篠遠博士とアリゾナ大学W・デイキンソン博士、サイモン・ブレイザー大学R・シャトラー博士が共同で、土器の科学的分析をした結果、驚愕の結果が出ました。年代測定は「熱ルミネッセンス法」により測定したところ約5,000年前(縄文前期末)~約4,500年前(縄文中期末)に作成されたものと分かりました。土器の成分分析では、ブアヌアツには存在しない鉱物が認められ、その成分は青森県内出土の縄文土器と質、量、技法などが一致し、縄文土器そのものである と判明したのです。

 「エファテーの縄文土器」は縄文土器に似ているのではなく、古代日本の縄文土器が運ばれたものだったのです。さらに太平洋上の他の地域、ポリネシア、ミクロネシア、硫黄島、ニューカレドニア、パプアニューギニア、イースター島にも縄文土器らしい土器破片が出土したと伝えられます。


 それだけでなく朝鮮、シベリア、アリューシャン列島の遺跡からも僅かですが縄文土器らしきものが出土しています。これらの土器を一刻も早く成分分析にかけ日本列島産なのか現地産なのを解明してほしいと思います。それにしてもどうやってこれら遠隔地に運んだのでしょう。長さ10メートルの丸木舟ではとても納得できません。帆走した、という考えも成り立ちますが、縄文遺跡からは帆柱跡のある丸木舟はまだ見つかっていません。謎は謎を呼んでいます。ロマンをかき立てますね。

2010年5月26日水曜日

リレー式航海 陸路も

 ◆長さ10メートルの丸木舟


 縄文人は丸木舟で日本列島各地と交易していた、という私のブログをみた知

り合いがこんなことを言ってきました。「あのちっぽけな丸木舟で日本海の荒

波を果たして乗り切ることができたのだろうか。そうならそのことを証明しろ

」。もっともな話です。これまで発見された縄文の丸木舟は喫水線が浅く、と

ても外洋に乗り出せる構造ではない―という指摘も多々あります。また、海流

に乗って無事目的地にたどり着けたとしても帰りの航海が難しいことは当然、

予想されます。

 それに対する一つの出土例があります。京都府舞鶴市浦入遺跡から出土した丸木舟は杉材を使い推定長さ10メートル、幅約1メートル、舷側の厚さ約3.6センチもある10人乗りです。約6000年前の縄文時代前期の建造とみられます。場所は日本海に面した舞鶴湾の外海との出入口に位置しています。遺跡周辺からは、桟橋の杭の跡、錨として使った大石なども発見され、当時の船着場と考えられます。遺跡の位置からして外洋漁業の基地だったのでしょう。この大きさならば穏やかな季節なら外洋に出ても大丈夫と思われます。

 ただたとえば青森の三内丸山から新潟県の糸魚川まで1航海でいけたかどうか、これは疑問です。私の考えるところでは青森県内だけでも5個所以上の海岸遺跡があります。隣の集落まで丸木舟で簡単に行けたと思います。これをリレー式につなげば糸魚川のヒスイを物々交換で三内丸山まで当然、運べたでしょう。なにも1隻の丸木舟で500キロメートル以上も航海する必要はないのです。隣の集落までなら潮の流れも暗礁も地元漁師なら十分、知っていますから。

 ところで日本列島では海岸からもっとも遠いと思われる長野県茅野市は、日本一古い国宝「土偶縄文のヴィーナス」が出土した棚畑遺跡をはじめ、縄文遺跡が多いことで知られています。これらの遺跡からは、新潟産出のヒスイ、瀬戸内地方特有の土器が出士していることから、当時瀬戸内・信越地方と交易があったことが確実視されています。ということは「交易活動」に当然、陸路もあったことが考えられます。主体は海路ながら陸路も含めて交易路のネットワークが縄文時代に確立されていた、と見るのが筋でしょう。それにしても縄文人は偉大ですね。

2010年5月25日火曜日

人類初期文明の一つ

 ◆9000年前に漆装飾品

世界最古の加工品は土器だけではありません。北海道南茅部町では世界最古

の漆製品が発見されました。約9000年前(縄文時代早期)のもです。発

見したのは北海道南茅部町教育委員会で、同町の垣ノ島B遺跡から出土した漆

塗りの装飾品が、縄文時代早期の約9000年前のもの分かったのです。放射性炭

素を使った年代測定の結果、判明しました。漆製品はこれまで、中国の揚子江

下流域で発掘された約7000年前のものが最古とされてきましたが、さらに2000

年も上回ったのです。装飾品は腕輪などで、縄文人がおしゃれだったことがう

かがえます。

 ◆世界最古の造船用具

 また鹿児島県の栫ノ原遺跡から、縄文時代草創期に当たる約1万2000年前の

世界最古の造船用具が発見されました。身が円筒形で刃部が丸ノミ状であり、

頭部が亀頭状にふくらんだ珍しい形態の磨製石斧です。この石器は「栫ノ原型

石斧」と命名されました。栫ノ原型石斧はチョーナ型(横斧)で、その用途は

木材伐採や一般加工ですが、特に「丸木舟」の製作に使われたと考えられます

。頁岩を磨いてつくったものです。長さ約15.7センチ、幅約4.2センチ、厚さ

約3.6センチ、重さ381グラムの手ごろな大きさです。

 丸木舟の製作方法は木材を半割りしたものの上に、焼いた石を置いて木材を

焦がしながら、磨製石斧でくりぬいたものと推定されています。

 ◆世界四大文明も初期文明の一つ

 縄文人は現代日本人へと連綿とつながってきます。それに対し世界四大文明(メソポタミア・エジプト・インダス・黄河文明を指す)は中国を除いて現代人との関連が薄く、地域によっては断絶しているとも考えられます。考古学研究が進展した現在は、人類初期文明をこれら四大文明に限定する見方は否定され、現在はこの四大文明も初期文明のうちの一つであるという見方が多数を占めています。ということは縄文時代も、この初期文明の一つとして位置づけるのが良いのではないでしょうか。日本人として日本文化は「世界最古に直接さかのぼる」と自信を持つのが当然といえましょう。

2010年5月24日月曜日

縄文火焔土器

◆ほとばしる命

 縄文土器の素晴らしさを前回、お伝えしましたが、特に土偶は豊穣と多産を祈る人型(ひとがた)の意味もあったと思います。私個人の感覚ではその遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)をも上回るすさまじいエネルギーを持った土器があります。あの有名な縄文火焔土器(かえんどき)です。これは縄文時代中期を代表する縄文土器の一種で、燃え上がる炎を 象ったかのような形状の器です。著作権の問題とまだこのブログに写真をのせる技術を持っていないので皆様に紹介することが出来ないのが残念ですが、深鉢の縁から燃え上がるような火炎が立ち上り見る人の心に衝撃を与えます。私は焼き物が好きでこれまで日展、院展クラスの展覧会を数多く訪問しましたが、縄文火炎土器を上回る迫力を持った作品にまだ出会っていません。現代作家は確かに繊細で優美な陶芸を我々に見せてはくれますが、あの天をも焦がす勢いのエネルギーを噴出させた陶磁器はとても、作り出せないでしょう。縄文人がなぜこのような土器を作り出したのかは謎ですが、縄文人の生へのほとばしる情念が背後にあったことは確かです。

 縄文中期のこのような装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるまでに発達しました。この特徴は、日本周辺の土器にはみられない特徴で、世界でも珍しいといえます。たぶん神へのお供えではなかったかと思われます。縄文土器は当時、世界最先端の芸術作品だったのでしょう。王権が確立した世界四大文明ではこのような奔放な作品はとても生まれません。
 現代人は社会規範に縛られて、ある意味では生きる力を失っていますが、ありがたいことに時にはそれを解放しても許される時代に我々は住んでいます。命を燃焼させる場を見つけなければなりません。

2010年5月22日土曜日

遮光器土偶

 ◆土器、女性原理の象徴
 世界最古の土器を開発した縄文人(または縄文人の祖先)はその後も土器製作に磨きをかけます。最初は縄文土器の基本形である深鉢から始まりました。深鉢は量的にも多く、特に縄文前半の時期は深鉢以外の器形は希でした。しかし、中ごろから淺鉢のような器形が現れ、続いて注口付き、香炉形、高杯、壺形、皿形など様々な形が現れます。特にに東北地方晩期は器形の変化が多様で、縄文人の土器への思い入れをうかがわせます。

 作り方は窯を使わず平らな地面あるいは凹地の中で、やや低温(600℃~800℃)で焼成しました。赤褐色系で、比較的軟質。やや厚手で大型のものが多いのですが、用途や時期によっては薄手、小形品、精巧品も作られています。狩や材木加工に使い男性原理の象徴と考えられている石器に対して、食料の保存加工に用いる土器は女性原理に属するものであると考えられており、信仰に関わる土製品には代表的な土偶のほか、土器片を再利用して人形状土製品や鏃状土製品、土製円盤、土器片錘などが作られました。

 特に遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は有名で、目にあたる部分が北方民族のイヌイットが雪中行動する際に着用する遮光器のような形をしていることからこの名称がつけられました。古代人が遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇大表現と考えられています。さらに大きな臀部、乳、太ももと女性をかたどっていることが特徴です。このような土偶は世界的にも存在せず、縄文人の感性の豊かさを表すものといえましょう。

 普通の人間の形を逸脱した極めて特徴的な形態から、ロシア人科学者などから宇宙服を着用した宇宙人の姿をなぞったものであるという説「古代宇宙飛行士説」が出されています。また地元研究者からは東北地方で広く信仰されたアラハバキ神であるという説が唱えられ、考古学ファンの中からは古代シュメールの女神イシュタル説を提唱する人もいます。いずれにしても奇想天外なその姿型を創造することができた縄文の人々の感性の豊かさが指摘されるでしょう。

出土場所は青森県 岩手県、宮城県と東北各地に広がっており、1集落単位の狭い文化でなく、普遍性を持った存在だと考えれてています。

 <お断り>23日は大阪出張のため連載は休ませていただきます。

2010年5月21日金曜日

世界最古の土器を製作

◆1万6500年前

 縄文時代は1万3000年前から2300年前まで、1万年以上続いています。縄文というと狩猟採集生活というイメージがありますが、実際は栗を栽培したり、交易をするなど、日本独自の縄文文化が花開いていたことがわかっています。その中でもっとも注目されるのが土器文化です。なんと世界最古の土器文化をスタートさせていたのでした。

 1988年、青森県の大平山元遺跡で見つかった文様のない無文土器を暦年較正年代法で年代分析したところ、世界最古の土器という事が分かったのです。 1万6500年前(縄文時代前)のものと言われています。これは、中国や他の国で発見されているものと比較して、群を抜いて古いものです。


 時代的には氷期が終了する前の事であり、大陸側の極東地域には同時期の土器文化の存在が知られ、相互の関係が注目されます。というのもマンモスを追って南下したブリヤート人が、当時、陸続きだった間宮海峡、宗谷海峡を渡って北海道に移動、縄文人となったことは前にお話しました。その民族が土器文化の担い手だったことが強く推察されるのです。当然、日本列島と極東地域は交流があったとみられ、その過程で土器文化のやりとりがあったことがうかがえます。列島が先立ったのか極東が先立ったのか現時点では分かりませんが、発掘がすすめば、さらに古い土器が発見されるかもしれません

 日本人の直接のご先祖が、世界四大文明に先駆け、世界最古の土器をつくり、使っていたとはすごいことですね。ほこりにしなくてはなりません。

2010年5月20日木曜日

世界2位の緑被率

 ◆自然循環型文明が日本を守る

 縄文人が豊かな自然循環型文明を築いて戦争を知らない平穏な心で暮らしていたころ、ユーラシア大陸では自然収奪型文明が進行、常に森を食いつぶすことで、階級社会を築いていきました。四大古代文明の地はほとんど砂漠化・荒地化しました。中世、近世も森つぶしは進行しました。ギリシアを訪れたことがありますが、どこを見ても禿げ山です。イタリアも禿げ山だらけです。イギリスの国土を覆っていた森は16~18世紀にほとんど消滅し、現在の森は19世紀以降、人間によって植えられたものです。ドイツの有名な「黒い森」も、現在は集落や果樹園に挟まれて存在するだけになりました。

 アメリカの森は17世紀以降の移民によって切り開かれ、綿、トウモロコシ、タバコなどの大規模栽培に取って代わられました。花粉分析によりますと、アメリカの大森林が1620年から1920年までのわずか300年間にほとんど破壊つくされたました。それはまた森の民、インディアンの滅びを招いたのです。よく西部劇映画ではインディアンが砂漠を馬で駆け抜ける場面が出てきますが、あれは白人が森を破壊し、砂漠に追いやられた実情を示すものです。。

 日本では縄文末期、稲作を受け入れてからも、森との共生の努力が続けられました。神道は縄文まで遡る、といわれていますが神社にはかならず鎮守の森がもうけられ、また森を食いつぶす家畜の数はきびしく抑えられてきました。古代、日本に入ってきた羊は森を破壊することから結局受け入れられず、今、日本にいる羊は明治以降、導入されたものです。森を美しく保つことで、栄養分が川から海に流れ、漁獲を安定させるという「魚付き保安林」が今も厳格に守られています。

 現在でも、日本の緑被率(森林が国土に占める割合)は67%と、フィンランドの69%に続いて世界第2位です。この狭い国土で、世界有数の人口密度と工業生産を維持しながら、なおもこれだけの森を残していることは、縄文時代からの共生と循環の思想が、今なお我々の精神の基底にあるからとしか考 えられません。

2010年5月19日水曜日

多様性豊かな縄文時代

  ◆平和な平等社会

 話は三内丸山に帰ります。同遺跡では成人の墓約100基、小児用の墓約880基が見つかっています。集落のそばにきちんとと配列されたこれらの墓地は、全く大小の区別なく、副葬品もみな同じでした。ここから縄文社会が階級差のあまりない、基本的には平等主義の共同体社会であったといえます。巨大な建物も、王や貴族の家ではなく、宗教的儀礼や共同の作業場、食料貯蔵庫など社会全体の持ち物だったと推定されてます。

さらに、縄文時代には、狩用の鏃(やじり)はあっても槍、刀など人殺しの武器は出土していません。縄文時代は戦争のない平和な平等社会であったのです。どういうことかと言うと、縄文時代というのは多様性が特徴です。食料にしても何か単一のものに縛られていません。三内丸山では栗を栽培していたけど、ヒエ、アワ、ドングリ、イノシシ、鹿、カモシカ、ウサギ、ムササビ、サケ、 ニシン、イワシ、アジなどがが、主食や副食として利用されていました。出土しませんが当然、山菜や野菜、キノコ類もふんだんに食べられていたはずです。弥生の米みたいに栗だけに縛られていたわけではなかったのです。この多様性がアワがだめならイノシシ、イノシシがなければサケ、と逃げ道を作り、人々が争うことを避けえたのです。

 三内丸山遺跡が充実期を迎えた今から5千年前、同じ時期のメソポタミアやエジプトでは、すでに王が出現し、人民を搾取して、王宮,城砦など巨大な建物を造って富めるものと貧しいものが生まれていました。階級社会が誕生していたのです。周辺国と土地や富をめぐって戦争が絶えませんでした。日本の縄文文化とは著しい対照となっています。あなたはどちらが好ましい、とお考えですか。

2010年5月18日火曜日

平和な平等社会

.◆貝塚は貝のお墓

本州の一部の縄文遺跡では、捕獲されたイノシシや鹿、カモシカなどの大型動物の骨も見つかっていますが、そうした動物では幼獣の骨が極めて少ないのが特徴です。また、鹿やイノシシの歯の分析では、冬の季節にしか捕獲されていない事が分かっています。それらの大型獣が絶滅しないよう、他の食物の少ない冬に限定し、成獣だけを捕っていたのです。そこに共に生きる自然への配慮が窺われます。

それだけではありません。昔の考古学では貝塚とは、単に貝の捨て場と考えていましたが、 最近では「貝のお墓」だという説が生まれました。貝塚の貝は丁寧に並べられて、盛り土をされており、どう見てもゴミ捨て場とは見えないのです。貝がふたたび豊かな身をつけて、この世に戻ってくるようにとの願いを込めて、貝の霊を丁重にあの世に送る場所が貝塚なんです。三内丸山遺跡で見つかった土器塚も、土器をあの世に送り返す場所であったそうです。

縄文人の精神の根底には、すべてのものに生命が宿り、それがあの世とこの世を循環しているという世界観がありました。


 ◆共生と循環の文明
 これについて環境考古学者・安田喜憲氏は次のように述べておられます。。
 縄文文化が自然との調和の中で、高度の土器文化を発
展させ、一万年以上にわたって一つの文化を維持しえた
ことは、驚異というほかはない。縄文文化が日本列島で
花開いた頃、ユーラシア大陸では、黄河文明、インダス
文明、メソポタミア文明、エジプト文明、長江文明など、
農耕に基盤を置く古代文明がはなばなしく展開していた。

 東アジアの一小列島に開花した縄文文化は、こうした
古代文明のような輝きはなかった。しかし、これらの古
代文明は強烈な階級支配の文明であり、自然からの一方
的略奪を根底に持つ農耕と大型家畜を生産の基盤とし、
ついには自らの文明を支えた母なる大地ともいうべき森
を食いつぶし、滅亡の一途をたどっていく。

 それに対し、日本の縄文文化は、たえず自然の再生を
ベースとし、森を完全に破壊することなく、次代の文明
を可容する余力を大地に残して、弥生時代にバトンタッ
チした。それは共生と循環の文明の原点だった。


1万年の間、縄文人はこの列島の中で、共生と循環の世界観のもとで、豊かで、平和な平等社会を営んできたのです。それはユーラシア大陸に発生した「自然収奪型文明」とは、まるで性格の異なる「自然循環型文明」の基盤たったのです。地球資源を急速に食いつぶし、1年で4万種もの生物種を絶滅させている現代の人間にとってそれは眩しいばかりの光を放っている時代だったと思われてなりません。

2010年5月17日月曜日

環境変化に次々対応

◆定住して栗を栽培

 縄文というと、かつては移動しながらの狩猟採集生活していたと思われていたのですけれど、実際は定住して栗を栽培していました。青森県・三内丸山の縄文集落は1000年ぐらい続いたといわれていますが、遺跡の周辺には、栗林が広がり、縄文人は栗を主食の一種としていました。栗が人工的に栽培されていた可能性も指摘されています。さらに遺跡からは大量のヒスイが出土しました。ヒスイの原産地は中部日本の糸魚川流域でした。ヒスイと栗の交換貿易を行っていたらしいのです。それどころか日本列島各地と広く交易まで行っていたようです。行き来は日本海や太平洋を丸木舟でしていました。その三内丸山の集落は、今から4000年前、もう一回地球が寒冷化したとき、栗が採れなくなって潰えてしまいます。住民たちは南下していったのではないかとみる人もいます。
 寒冷化に応じて、縄文人は寒さに強いトチの実に主食を切り替えていきました。埼玉県の川口市の赤山陣屋跡遺跡では、流水を利用した大規模なトチの実の灰汁抜き施設が発掘されています。つまりトチを食料とするための技術革新があったのです。

 ◆環境に適した効率的な食システム

 ヒエも利用されていました。穀類であるヒエは狭い面積で多くの収量が期待でき、栄養価が優れ、貯蔵が簡単で、主食として優れた食品です。実際にヒエは日本では近世まで非稲作地帯の主要穀類であったのです。世界のヒエの分布から見て、ヒエ栽培は日本が起源地であるという説もあります。
縄文人たちは野生の果実を集めて、酒造りも行っていたことが確実視しされています。果実が発酵していた事を示す昆虫化石が発見されたのです。さらに年間を通じてとれる貝類、季節的に押し寄せるサケ、 ニシン、イワシ、アジが、主食や副食として利用されていました。肉類では、ウサギ、ムササビなどの小動物を食べていました。現代人に勝るとも劣らない幅広い食生活を楽しんでいました。

 まとめて申しますと縄文人は、栗やトチ、ヒエを主食とし、これに水産資源や小動物を幅広く食べていました。季節の変化をよく理解し、身の回りの多様な動植物を最大限に利用する効率的な食のシステムを作りあげていたのです。自然環境の変化に常に対応し技術革新をしていたのですね。

2010年5月16日日曜日

植物食に移行

 ◆大型動物が絶滅
 狩猟民族に脱皮したブリヤートの人々をさらに襲ったのは氷河期の深刻化です。マンモスなど大型獣は太陽を求めて南下、人々もそれを追って陸地だった間宮地峡、宗谷地峡を越え、約2万年前に北海道に到達しました。日本列島に移ってからは徐々に最寒冷期が過ぎ、温暖化が始まりました。草地と針葉樹林帯だった日本列島は、広葉樹林帯、照葉樹林帯へと変化し、居場所を失ったマンモス、ナウマン象など大型動物は最終的には人間に狩られて絶滅してしまいました。替わりに鹿・タヌキ、イノシシ、ウサギなのど小動物が増えて、大型獣に頼っていた食料の絶対量が減りました。しかし負けてはいません。狩猟道具を鈍重な大型動物をたおす細石刃から、俊敏な小型動物を狩るための鏃(やじり)などに進化させていきました。しかしそんな小動物だけで全ての食料をまかなうには無理があります。やがて縄文人は、ドングリや栗の採取などの植物食生活へと移っていきます。 1万2000年前、動物の毛を混ぜた土で薄手の土器を作り、ドングリを煮て渋みを取ることを覚えたのです。ドングリという比較的簡単に手に入るものを煮炊きすることで本格的な食糧化に成功したのです。

2010年5月15日土曜日

生存への技術革新

 ◆弱いグループが世界に進出?

「国際的日本人」というタイトルに反して?長々とイブ誕生から縄文まで書いてきましたが、これは縄文人が現代日本人の肉体、精神、心理の基層をなしていることから、日本人というものを考える場合、縄文を抜きにしては成立しないからです。ここからは日本人の性質、意識の根源にあるものは何か、ということを考えてみたいと思います。

 ところで最初にも申しましたように現生人類の祖先はアフリカの大地溝帯に生まれたたった一人のイブです。たった1人の母親から65億人もの現生人類に増えていったわけです。人類が一定程度に増えた後、スエズ地峡付近を通って何派にも分かれて。ユーラシア大陸への移動、いわゆる脱アフリカが始まりました。理由は分かりませんが、人口が増えすぎて大地溝帯では養えなかったからでは、と推察されます。その場合、力の強い集団は現地に残り、弱い集団が追い出されたのでは、とも考えられます。そうするとアフリカの黒人は強い集団の末裔で、ユーラシアに逃れたのは弱い集団だったのでは、との推定も成り立ちます。現に同一栄養価、同一社会的条件化では黒人系の運動能力は非常に高く、アベベを初めとして多くのオリンピックの上位入賞者がいますし、アメリカのプロ野球、プロフットボ-ルは黒人選手が目立ちます。

 中近東からユーラシア大陸に移動した「弱いグループ」が遭遇したのはネアンデルタール人との混血です。そこでどんな遺伝情報が得られたのかは今後の研究を待たねばなりませんが、、優勢遺伝の原則からは人類が発展していくよい遺伝情報を得た可能性があります。中近東から東西に分かれた人類はさまざまな環境変化に遭遇しながら全世界に散らばっていこことが出来たのもそれが原因かもしれません。もちろんで多くのグループが氷河期、食糧難、伝染病などで絶滅していったと考えられます。しかし日本人のご先祖様はこれらの環境変化に適応し、現在の日本人を作り出したのです。

 ◆劣悪な条件に適応

 脱アフリカ以降も人口増、あるいは環境変化によって弱いグループが強いグループに次々居住地を追われ、世界の果てまで流れついていったことがよく理解されます。しかし追い出されたグループは新環境でたくましく劣悪な条件に適応していきます。縄文人のご先祖の古モンゴロイドは狩猟採集の中近東を追われたあとシベリアのバイカル湖付近に定住し、ブリヤート人となりました。

 シベリアには、氷河期ではありますが、短い夏の草原があり、マンモス・ライオン・サイ・トナカイなどの大型動物がいました。彼らは石をたたき割り整形し、くさび型にして、さらに縁に棒をあてハンマーでたたいて、薄い石器を作りました。細石刃(さいせきじん)です。長さ2~3cm、幅5mm、厚さ1~2mmという大きさです。細石刃を角でできたやりの先の両側にたくさん取り付け、集団で狩りをしました。本格的な狩猟民族に変化したわけです。現在の原子力にも匹敵する大技術革新でしょう。生存への技術革新に拍手を送りたいですね。

2010年5月14日金曜日

間宮、宗谷海峡の誕生

 ◆縄文を育てた対馬暖流

 このように日本列島で縄文文化が花開いたのは、実は日本海に対馬暖流が流れ込むようになったことが一番の契機だったのです。8000年前以前は暖流は太平洋側にしか流れていなかったのです。ところが1万年前ぐらい前から地球温暖化が始まり、海面上昇によって,間宮海峡、宗谷海峡が誕生、津軽海峡が深くなって黒潮の分流が日本海に流れ込むようになったのです。二つの暖流に囲まれた日本列島は、温暖で湿潤な気候に変わり今のような四季が生まれたのです。落葉広葉樹林帯や照葉樹林帯が日本列島を覆い、ドングリやクリを採集できるようになりました。それ以前の日本列島はもっと寒冷化、乾燥していて、草原が広がっていました。だからナウマン象など大型獣が生息できたのですね。それが暖流が日本海に入ったおかげで、今に残る白神山地のような豊かな落葉樹林帯が生まれたわけです。それが縄文人の定住を可能にしました。

 ◆豊かな自然を育てた雪

 冬になると大陸から西よりの冷たい季節風が吹いてきます。季節風は日本海を越える時に,暖かい対馬暖流から蒸発した水分を吸収して湿った風になります。この湿った風が中国山地から東北までの脊梁山脈にぶつかって上昇し、冷やされて雪となります。それで富山や新潟には一冬の雪としては世界的な降雪量となるドカ雪がふります。雪が何をもたらすのかといえば水です。山間部に積もった雪は春まで溶けず、「自然のダム」の機能をはたしています。この雪は春から初夏にかけゆっくり溶け、伏流水となって日本列島を湿潤な風土に変えました。

 世界遺産になった白神山地のブナ林も、冬場の大量の降雪によって育まれたものです。その後、日本列島各地で水田耕作が可能になったのも、豊富な雪溶け水に依存している面が大きいといえます。つまりクリやドングリの採集生活であれ水田稲作であれ、8000年前に日本海に暖流が入ったおかげだと言っていいのです。 縄文の地球温暖化には感謝したいですね。

2010年5月13日木曜日

実験考古学の登場

 ◆石器がそんなに威力があるの?

 ここまで書いたとき読者から質問がありました。「日本人の祖先があの巨大なマンモスを狩っていたというけど、単なる石器で倒せるのか。また石で丸木舟が作れるはずがない」というものです。もっともな話で、我々が習った教科書にも日本人の先祖がマンモス狩りをしていた、という記述はありません。
 日本人の祖先がシベリヤからやってきた証拠は、ミトコンドリアDNAだけではありません。シベリヤの2万3000年前のマリタ遺跡という遺跡で、細石刃(さいせきじん)を植刃した槍が出土しました。このシベリアで出土したのとそっくり同じ細石刃の槍が、北海道からも出土しています。
 細石刃というのは、黒曜石などを割って剃刀の刃のように加工した石片です。これを鹿の骨などの両側面に植刃して槍の穂先にしました。シベリアに移動したモンゴロイドは、この細石刃の槍でマンモスなどの大型動物を狩っていました。でも、石器の槍でマンモスを狩ることなんて果たして可能なのでしょうか。そこで登場したのが実験考古学です。実験考古学者が実際に細石刃を植刃した槍を作って実験してみると、ものすごい破壊力で、動物の皮を簡単に突き破ってしまいました。当時の人々はマンモスを池や沼地に追い込み動けなくなったところを、この槍で仕留めたらしいのです。
 シベリアのマンモスは氷河期の寒冷化が強まると南下を開始し、その一部は樺太を通って北海道へと移動しました。そのマンモスを追ってモンゴロイドも北海道にやってきたのです。それを証拠づけるのが、北海道から出土している細石刃とマンモスの臼歯なのです。
 そこで問題なのは海です。現在は大陸と樺太、北海道、そして本州は海峡によって隔てられています。マンモスや私たちの祖先はどうやって海を渡ってきたのでしょう。
 氷河期には海面は今より100mも低かったのです。大陸と樺太・北道は陸続きでした。深い津軽海峡も今よりずっと狭まっていて、厳冬期には氷結して通行可能です。日本列島は事実上、大陸と地続きだったということです。
 マンモスを追ってシベリアからやってきた人々は、約2万年前に北海道に到達しました。その後マンモスは人間に狩られて絶滅してしまったとみられます。

◆威力抜群の丸ノミ石
 現代人は石器で丸木船が作れるのかと思ってしまいますが、例えば石を磨いてつくった彫刻刀のような磨製石斧の丸ノミ石。南方系縄文人はこのの石ノミで丸木船を造り、黒潮に乗って鹿児島にやってきました。沖縄の港川人遺跡では人骨と磨製石斧が一緒に出土しています。
 実験考古学では磨製石斧を使って直径30センチぐらいの木を切り倒してみたのですが、なんと30分位で切り倒されました。磨製石斧はへたな鉄の斧と変らないぐらいよく切れるものだったのです。だから丸木船をくりぬくこともできたんですね。 日本人の祖先の知恵に敬服します。

2010年5月12日水曜日

大噴火で縄文文化に断絶

 ◆稲作始まる

 南方系縄文人の文化はさらに発展、7500年前には壺型土器を作る技術も持っていました。鹿児島県の上野原遺跡から出土したのです。壺型土器は他に用途が考えられないことから、これは穀物を栽培していたことの証拠だといわれています。稲、ヒエ、ハト麦などの穀物を壺型土器に蓄えたとみられているのです。つまり鹿児島では、7500年前から陸稲をつくっていた可能性があるのです。 稲栽培は弥生時代から、といわれていましたが、縄文時代、すでに栽培された、と現代の考古学は推測しています。

 ◆鬼界カルデラ大噴火
 そこに大破局がきました。6300年前ごろ、鹿児島県南方の薩摩竹島と薩摩硫黄島を陸上のカルデラ縁の一部とする鬼界カルデラが破局的大噴火、火砕流は海を渡って100km離れた九州南部にまで達しました.急速水冷による大量の火山灰(アカホヤ)は西日本を覆いました.南九州は全滅状態となり、多くの住居址がこのとき埋まりました。縄文文化に断絶が生じた可能性が指摘されています.もちろん四国・紀伊半島・関東に移住した人々の一部は生き残り、北方系の縄文人と混血しながら現在の日本人の基層を作り上げてきたといえるでしょう。縄文人が北、東日本に多く、西日本に少ないのは次に来る弥生人の影響もありますが、この破局的大噴火が一因ともいえます。
 

2010年5月11日火曜日

3波に分かれて日本列島へ

 ◆縄文人になったブリヤート人

 アジアに向かった現生人類の集団はさらにバイカル湖方面とインド方面に別れ、5~7万年前にはバイカル湖南方に達しました。これが日本人の直接のご先祖になったグループで、現在のブリヤート人とみられます。マンモスを食料としていた ブリヤート系の人々は氷河期で食糧難に陥り、一部はベーリング地峡(当時は海面が下がり、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きだった)を通ってアメリカ大陸に渡り、1万3000年前には南米にまで行き着いています。
 一方、沿海州方面に向かった古モンゴロイドと呼ばれたブリヤート系の人々は、3万年~1万4000年前ごろ石器をたずさえ、陸続きだった樺太経由で北海道へ入ったとみられます。日本の後期旧石器時代を担いました。やがて縄文人に発展。青森県の三内丸山遺跡はこのグループの子孫が構築したと指摘する向きもあります。これに続いて1万2000年ほど前には朝鮮半島経由で薄手の土器を持ったブリヤート人系の人々が日本列島に到着、主に関東・中部地方に住み、ドングリを主体とするナラ林文化を育みました。
 インド経由で東南アジアにきたグループは、氷河期のため海面が下がってインドネシア付近にできたスンダランドという小大陸に移住、ワジャク人となりました。氷河期が終わり、海面があがり、スンダランドが小さくなって行くと、丸ノミ石で木をくりぬき、丸木舟を作り、海へ出ていき、黒潮に乗って、1万8000年年~1万6000年前、沖縄にたどりつき港川人となったとみられています。1万2000年ほど前には南九州へ流れつき、さらに四国・紀伊半島・関東に移っていく者もいました。 南九州は、シイなどの照葉樹林帯であり、木の実が豊富でヒエ・ハトムギ・アワなどの雑穀も食べていたようです。南からきた縄文人の始まりです。南方系モンゴロイドとも呼ばれています。
 一口でいうと縄文系のの人々の流れは3波あったわけです。当然、3波による混血も次第に進み、現在、知られる縄文人を形作っていったのでしょう。

 ◇ここまでの主な参考資料◇

 『日本人はどこから来たか』加藤晋平(岩波新書 )
 『日本人の起源』尾本恵市(裳華房刊)
 『大系日本の歴史1日本人の誕生』佐原真(小学館)
 『遺伝子・DNA 3- 日本人のルーツを探れ- 人類の設計図』(NHK出版)
 

2010年5月10日月曜日

あなたはネアンデルタール人の子孫!?

 ◆中東で混血
 ここまで原稿を書いたとき、衝撃的なニュースが入ってきました。共同通信系の各新聞が、5月7日、一斉に報じたのです。要旨は

 約3万年前に絶滅した旧人「ネアンデルタール人」のゲノム(全遺伝情報)を骨の化石から解読したところ、現生人類とわずかに混血していたと推定されるとの研究結果をドイツのマックス・プランク進化人類学研究所や米バイオ企業などの国際チームが7日付の米科学誌サイエンスに発表した。
 旧人と現生人類は数10万年前にアフリカで共通の祖先から枝分かれした近縁種で、ある時期、地球上で共存していたとされる。混血の有無は人類学上の論争の1つで、これまでは無かったとする説が有力だった。
 研究チームは、クロアチアの洞窟(どうくつ)で見つかった約4万年前の旧人女性3人の骨粉標本を分析し、ゲノム全体の約60%を解読した。一方でアフリカの南部と西部、フランス、中国、パプアニューギニアの現生人類5人のゲノムも解析。旧人と比較した結果、枝分かれの地であるアフリカの人より、それ以外の現生人類の方が旧人のゲノム配列に似ており、ゲノムの約1~4%が旧人由来と推計された。
 人類学では、共通祖先の一部がアフリカから欧州に渡り旧人に進化、欧州や西アジアで生活する一方、アフリカに残った共通祖先から現生人類が現れ、約7万~8万年前に中東に進出、その後、欧州やアジア、米大陸などに広がったと考えられている。研究チームは、現生人類がアフリカを出て各地に広がる前の中東時代に、旧人と混血したと結論づけた。 (5月7日付 中日新聞)

 かいつまんでいうと旧人と現生人類の共通祖先の一部が先にアフリカから欧州や西アジアに移り、ネアンデルタール人になりました。その後、現生人類がアフリカを出て中東に進出したとき混血したというものです。日本人のご先祖はその中東経由で日本列島に来たわけですから、当然、ネアンデルタール人の血が混じっている、と推定されます。今回の調査ではユーラシア大陸やパプアニュ-ギニアの人は1-4%程度、旧人にゲノムが似ているそうですから、日本人もそれくらいのゲノムが似ているのでしょう。早く日本人のゲノムも調べてほしいものですね。私の遺伝子情報でよっかたら喜んで研究者にさしあげます。そして私のどの部分がネアンデルタール人系なのか知りたいものですね。

2010年5月9日日曜日

脱アフリカ、世界各地へ

◆何波にも分かれて
 人類の祖先はアフリカで1人の女性から始まったことをお話ししました。日本人も当然、このイブの子孫です。この遺伝子解析に化石、考古学、血液学などを加味して調べていきますとイブの子孫は10万年ほど前に、押し出されるようにアフリカ大地溝帯から北に向かうグループ、西に向かうグループ、南に向かうグループに分かれました。もちろん現地に残ったグループもあります。人口が増えすぎたか、または気候変動で食糧難に陥ってしまったのが民族大移動の原因でしょう。弱いグループが追い出されたと推定されます。北に向かったグループはオリエントでヨーロッパ行きの集団とアジア行きの集団に別れました。その後、何波にも”脱アフリカ”が繰り返されて、現在みられる地球上のヒトの分布の原型ができたと考えられています。 30年ほど前まではネアンデルタール人はヨーロッパ人の、北京原人はアジア人のご先祖、という説がありましたが、混血があった可能性は捨て切れませんが、両者とも絶滅人類で、現生人類とは直接関係がない、と判断されています。

2010年5月8日土曜日

すべての人類は1人の女性から

 「国際派日本人の基礎教養講座」に関心を持っていただき誠にありがとうございます。日本に生まれ、日本に住み、そして日本社会、日本の風土から他国では考えられないほどの多くの恩恵を受けながら、日本への感謝、地域社会への感謝を忘れた人があまりにも多いと感じています。それどころか外国のほうが優れている、外国のほうが正しい、と日本をけなす人も多くいます。それはそれで結構なのですが、単なる批判ではなく、それを建設的意見に昇華するのが筋ではないでしょうか。日本はそうした意見を受け入れる土壌がある世界でも数少ない幸せな国なのですから。日本という国を批判する人の話を聞いていますと、その底に日本の歴史、特に近現代史をまったく知らなかったり、日本人のすばらしいバックボーンに気付かなかったり、日本と大陸諸国の精神形成の違いを理解していないなど、あまりに無知な面が目立ちます。要は自分のことを知らなさすぎるのです。 この講座では初回に趣旨を申しましたが、日本とは何か、日本人とは何か、日本列島への思い、世界の中の日本、地球史の中の日本など、日本人としてのアイディンティティを認識し、外国人と太刀打ちできる国際人が育ったなら、と思っています。いろいろな考え、反発、共感、時には抗議もあるでしょう。ぜひメールでご意見を送りください。期待をしています。最初は日本人のルーツを考えてみたいと思います。
 ◆縄文人は北から、南から
 中高校生のころ「お前は毛が濃いから先祖はアイヌ人だ」「君は朝鮮顔だから朝鮮人の子孫だ」「色が濃い俺は南方出身だ」などと祖先がどこから来たか言い合ったものです。特に高校生にもなると自他を意識する年齢になり、合宿で風呂に入ったりすると互いの胸毛やすね毛の有無が気になりました。女生徒でも細面・丸顔、色の白さ、直毛・縮じれ毛など思春期のころは親からの遺伝を考えた方も多かったでしょう。日本人ならば同じ顔つき、体格をしていればいいものを思春期を悩ますこの違いはどこからきたのでしょうか。日本人が北、南、東から何派にも渡ってきた多くの民族の混血の結果だと、いわれています。最新の科学によりますと母から娘に伝わるミトコンドリアDNA、父から息子に伝わるY染色体DNAを調べていくと家系、しいては民族の系列が分かるようになりました。DNAは原則、変化しませんので母と娘、父と息子は同じDNAを持つ、というわけです。 ところがDNAは一定のペースで突然変異が起こることも分かってきました。たとえはミトコンドリアDNAは約1万年で突然変異を起こすと言われています。そうなれば歴史が長くなればなるほど、その集団でのDNA配列の違いは大きくなる、ということになります。 そこでアメリカのDNA研究グループが人種ごとのDNAを調べ、現生人類の系統樹を作成しました。その結果、驚くべき結果が導き出されました。なんと「すべての現代人は約20万年~約15万年前に東アフリカの大地溝帯に生まれた1人の女性を、共通の祖先とする」というものです。女性の名はイブと名づけられました。あの「アダムとイブ」のイブです。アダムについてはまだ分かっていません。イブがどうして誕生したか、旧人と言われる現生人類の直接のご先祖の1人がなんかの弾みで突然変異を起こし、すべての民族の母になったのでは、とも考えられます。「人類はみな兄弟」といえるわけです。

2010年5月7日金曜日

あなたと日本を再活性化させよう

 はじめに



 「国際派日本人の基礎教養講座」ー。ブログとしてはおどろおどろしいタイトルですね。これを読んでくださる方は社会の中核的存在の皆様だと思います。日本の現状を考えるとき、テーマはこれに行きついてしまいました。日本で今、最も必要とされていること。それは日本人の国際化とそれを支える日本人としてのアイディンティティです。日本人としての魂を確立し、外に向かって大きく飛躍するときこそ、あなたと日本が発展していくのです。現実の日本は「下向き、内向き、後ろ向き」の世界となっています。これを「上向き、外向き、前向き」に切り替えていかなくてはなりません。

 NHKの朝のテレビドラマ「ゲゲゲの女房」で有名になった鳥取県境港市で水産会社を経営するAさんという方がいらっしゃいます。Aさんは貧困家庭に生まれ、中学卒業後、魚屋さんの下働きから身を起こし、苦闘の末に鳥取県を代表する技術、氷温と出会いました。まだ海のものとも山のものとも分からぬ氷温とがっぷり四つに組み、とうとう魚の氷温輸送、熟成に成功、今では家庭用冷蔵庫にも氷温室がついている時代の基礎を築きました。Aさんの人生もまた「上向き、外向き、前向き」なのです。日本人は江戸爛熟文化、明治維新、日清日露戦争、戦後の高度経済成長と大事なときにはこの前向き姿勢でした。でも第2次世界大戦と昭和の終わりごろから現在まで後ろ向きになったのです。日本人とは何か、日本人の深層を対外的問題も含めて探っていきたいと考えています。ほぼ毎日、更新しますのでご愛読くださいますよう、お願いします。

                                    清雅坊