2010年5月26日水曜日

リレー式航海 陸路も

 ◆長さ10メートルの丸木舟


 縄文人は丸木舟で日本列島各地と交易していた、という私のブログをみた知

り合いがこんなことを言ってきました。「あのちっぽけな丸木舟で日本海の荒

波を果たして乗り切ることができたのだろうか。そうならそのことを証明しろ

」。もっともな話です。これまで発見された縄文の丸木舟は喫水線が浅く、と

ても外洋に乗り出せる構造ではない―という指摘も多々あります。また、海流

に乗って無事目的地にたどり着けたとしても帰りの航海が難しいことは当然、

予想されます。

 それに対する一つの出土例があります。京都府舞鶴市浦入遺跡から出土した丸木舟は杉材を使い推定長さ10メートル、幅約1メートル、舷側の厚さ約3.6センチもある10人乗りです。約6000年前の縄文時代前期の建造とみられます。場所は日本海に面した舞鶴湾の外海との出入口に位置しています。遺跡周辺からは、桟橋の杭の跡、錨として使った大石なども発見され、当時の船着場と考えられます。遺跡の位置からして外洋漁業の基地だったのでしょう。この大きさならば穏やかな季節なら外洋に出ても大丈夫と思われます。

 ただたとえば青森の三内丸山から新潟県の糸魚川まで1航海でいけたかどうか、これは疑問です。私の考えるところでは青森県内だけでも5個所以上の海岸遺跡があります。隣の集落まで丸木舟で簡単に行けたと思います。これをリレー式につなげば糸魚川のヒスイを物々交換で三内丸山まで当然、運べたでしょう。なにも1隻の丸木舟で500キロメートル以上も航海する必要はないのです。隣の集落までなら潮の流れも暗礁も地元漁師なら十分、知っていますから。

 ところで日本列島では海岸からもっとも遠いと思われる長野県茅野市は、日本一古い国宝「土偶縄文のヴィーナス」が出土した棚畑遺跡をはじめ、縄文遺跡が多いことで知られています。これらの遺跡からは、新潟産出のヒスイ、瀬戸内地方特有の土器が出士していることから、当時瀬戸内・信越地方と交易があったことが確実視されています。ということは「交易活動」に当然、陸路もあったことが考えられます。主体は海路ながら陸路も含めて交易路のネットワークが縄文時代に確立されていた、と見るのが筋でしょう。それにしても縄文人は偉大ですね。

1 件のコメント:

  1. 清雅坊です。ごめんなさい。26日深夜にこのブログを見られた方は、何がなんだか分からなかったでしょう。当方の技術的ミスで編集中の原稿の一部が公開されてしまったのですから。あらあめておわび申し上げます。またこの原稿の前半で改行と別行が変な具合になって修正できません。お知恵を拝借できる方がいらっしゃいましたらよろしくお願い申し上げます。

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