2010年8月1日日曜日

モンゴルを巧みに分割占領

   ◆戦後、植民地を返さかったソ連 その3


  ロシアはモンゴル帝国時代にロシアを支配していたモンゴルに対しては慎重な構えを見せました。当時、モンゴルは中国と一部対峙しており、半独立的な立場でした。これを利用してロシアは中国からのモンゴルの一部独立を支援しました。しかし全モンゴル完全独立には組せず、中国には内蒙古を残したのです。その反面、モンゴルの支配地だった現在のブリヤート共和国の土地をロシア領に編入してしまったのです。たくみにモンゴルを分割し、勢力を割くという方法は成功。このためモンゴル諸族はモンゴル国、中国・内モンゴル自治区、ロシア・ブリヤート共和国に分かれて住むことを強制され、さらにロシア、中国の本土にも相当数のモンゴル諸属が分散居住しています。この図式は現在も変わらず、ロシアのしたたかさが感じられます。

  ◇ロシアのアジア侵略を80年間食い止めた日本◇

  日本海に進出したロシアはもちろん日本ともぶつかり、千島、樺太の領有権をめぐり交渉が続けられた結果、平和裏に1875年5月7日、樺太・千島交換条約が結ばれました。ところが明治天皇陛下を「猿」と呼んでいたロシア・ニコライ2世は日本攻略を広言、1904年に両国の間に日露戦争が起こり、ロシアの東亜遠征では初の大敗北。それから約80年間はモンゴル制圧を除いてアジア侵略は休止状態となったのです。日本のアジア民族としての貢献がいかに大きいかが分かります。しかし第2次世界大戦で日本の敗北が決定的となると日ソ不可侵条約を無視して満州、樺太、千島、北朝鮮に突如侵攻、大戦での漁夫の利を得ました。

  同時に多くの日本人民間人を含めた捕虜約107万人を終戦後、強制連行。シベリアなどソ連各地に送り、過重労働を強いました。飢えと極寒のなかで多くの人が死亡、アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したといいます。また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もあります。ソ連・ロシアは日ソ国交回復後も樺太、千島は日本に返還せず、北海道の一部である歯舞色丹も占拠したままなのです。ロシアのアジア制圧は依然、続いているのです。


   前掲を除くここまでの主な参考資料

日経新聞各号
「伊庭貞剛物語」、木本正次 朝日ソノラマ、
「日韓2000年の真実」、名越二荒之助編著 国際企画
「木のいのち木のこころ(天)」、西岡常一 草思社
「シベリア先住民の歴史」 ジェームス・フォーシス 彩流社
「日本とロシア」 高野明 紀伊国屋書店
「「ロシアの風」 中村喜和 風行社
サンケイ新聞各号
サイト ロシア人のシベリア征服 出羽 弘
武蔵野市公式ホームページ
新潟市公式ホームページ

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