2010年7月31日土曜日

アジア諸民族国家を制覇

  ◆戦後、植民地を返さかったソ連 その3



ロシア人たちはアムール河流域に来るまでユーラシア大陸のアジア諸民族国家、民族を次々制覇しています。まずイワン雷帝の時代(1580年代)にコサックの傭兵隊長エルマックの私兵集団がウラル山脈越えの交通路を切り開きました。付近はタタール人のシベリア汗国の支配地で、同国のクチュム汗の軍隊をうちやぶり、ロシア人によるシベリア支配の第一歩を印しました。その後クチュム汗は反撃してエルマックを敗死させましたが、ロシア人の侵攻は止まりませんでした。

  このあとロシアは南と東でモンゴル系・チュルク系の諸汗国(汗国とは東方系騎馬遊牧民族が打ち立てた国。族長を束ねた大族長が王となった)と次々戦って征服しました。銃と大砲という近代火器に弓矢と剣が主力兵器の諸汗国は太刀打ちできなかったのです。ロシアの圧制に対しツングース系などシベリアの原住民は、時には反乱を起こしたりしましたが、原住民自体が種族ごとに反目していたことと、南の強力なキルギーズやジユンガル国家よりもロシアのほうがより「文化的」であり、原住民にとって「よりまし」なものでありましたからロシアに服属した種族が多かったのです。

  特にジユンガル汗国が清によって滅ぼされたときには、多くの住民や豪族がみずから求めてロシアの保護下にはいり、その代償として毛皮税を支払ったのです。

  ◇清からアムール河以東を奪い取る◇

  ロシア人たちは、17世紀後半にアムール河流域に進出しましたが、当時新興の清朝と衝突しはじめました。これは彼らがシベリア征服を開始していらいはじめてぶつかった強力な相手でした。


  清とロシアとはその後、何回かの衝突、交渉を繰り返し、武力、特に火力に優れたロシアは巧みな外交力を背景に1858年から1860年のたった2年間にに愛琿条約、天津条約、北京条約を清に押し付け、一気にアムール川東岸(右岸)の外満州(東韃靼、沿海州)一帯を清から奪い取りました。アムール川から間宮海峡近くまで広大な土地をわずか数年のうちにロシアが自国領としたのです。それに前後してカムチャッカ半島、ユーラシア大陸東端、さらにはアラスカまで攻め入り、世界最大の領土保有国家となりました。ロシアの清朝圧迫はさらに続き19世紀末には三国干渉を利用し旅順、大連を含む遼東半島を租借、日露戦争の原因にもなったのです。

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