2010年7月22日木曜日

避難民を無差別殺戮

  ◆シベリア抑留 その6

 抑留ではありませんが民間人の中には逃避行の最中、ソ連軍に襲われ殺されたり凌辱を受けた女性も多かったのです。またソ連側が食料供給など保護措置をとらなかったことから飢え死にした人が続出、東満州では避難路に延々と日本人死者の屍が放置してあったといいます。なかでも満州奥地から避難した開拓民たちは避難しきれずに路中で集団自決したり、ソ連軍や匪賊と化した地元民により、略奪、暴行、殺人、強姦などの仕打ちを受けました。これについて内科医の西岡昌紀さんは自著「ソ連軍が満州に侵攻した日から60年目の日に」で、

  ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を破って、満州に侵攻した。そして、侵攻した先々で、子供や老人を含む、多くの日本の民間人を、無差別に殺戮したのであった。又、子供を含む、多くの日本人女性を、やって来たソ連軍の兵士たちは、至る所で、強姦、輪姦したのであった。その際の悲惨な状況は、原爆とは形が違ったものの、この世の生き地獄と呼ばれるべき物であった。--ソ連崩壊後も、日本のマスコミの多くは、何故か、このソ連軍の満州侵攻による悲劇を語りたがらない。若い人たちは、本書を含めた単行本を紐解いて、当時、日本の子供や女性が、ソ連軍によって、どれほどむごい目に遭わされたかを知って欲しい。
と記しています。

  ◇財産すべてを奪われる

  また私個人のことになりますが、父が召集されたあと終戦となり、避難先の日本人施設はソ連兵に襲われて時計、現金、宝石など財産といえるものは残らず奪われました。その後、母は生まれたばかりの妹を背負い、4歳になった私の手を片手で握り、もう一方の手で持てるだけの荷物を持って奉天から脱出、大連に向け多くの避難民と徒歩で避難を開始しました。食料は私が背負っていた岩塩だけで、畑のトウモロコシなどを食べて飢えをしのいだらしいのです。200キロ歩いたところで奉天に追い返され、その後、また南下、やっと無蓋貨車に乗ることができ、大連の収容所に入ることができました。途中、満人から私たち兄妹を売れ、と迫られましたが、母はダメ!と拒否、私は残留孤児にならずに済みました。拒否して苦労して日本に連れ帰ってくれた母には感謝の気持ちでいっぱいです。(以上の記録は母の話をもとにしたもの。私の記憶はほとんどありません)

  ◇半強制的に堕胎手術

  それから引揚関係者が意図的に書き留めを避けている問題があります。私もこのことは書きたくなかったのですが、書き留めておかないと永久に忘れ去られてしまうのであえて書きます。引揚がほぼ終了してから60年間という時間が時効にもなっていると思うので、書く義務があると思うのです。

  在留邦人の引揚が始まってから舞鶴、佐世保など引き揚げ港には厚生省が引き揚げ援護施設を開設しました。そこで何が行われていたか。女性を一人びとり診察室に呼び入れ、妊娠状況を検査、妊娠していれば事情を聞いて即、堕胎手術したのです。女性にとって最大の屈辱です。このあと自殺した方が何人もありました。殺された水子の数は公表されていませんが、相当な数に上ったとみられています。また引き揚げ船が入港する直前、投身自殺をされた女性が何人もいらっしゃいました。いずれも妊娠していたそうです。なんとも書くに耐えられぬ話です。ロシアの為政者に日本政府は何もいわないのが不思議です。

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