2010年7月7日水曜日

食料保存ができなかった縄文

  ◆平等に分け与える

  縄文時代は戦争がなかったものの気候の寒冷化には勝てず人口が減少したことを書きました。逆に弥生時代は戦争があったものの人口は着実に増えたことを指摘しました。どちらが人類にとって望ましいのか。本題に入ります。

  縄文は原則的に狩猟採集経済でした。この経済体制の欠陥は食料の保存が効かなかったことです。たとえば鹿が獲れたとします。しかし肉は保存が効きません。煮炊きを繰り返してもせいぜい保存は1週間でしょう。燻製の技術が誕生したのはもっと後世です。その集落は70人程度の住民だったとします。鹿肉は保存できないため乳飲み子を除く全員が鹿肉にあずかったのでしょう。もちろん鹿を仕留めた狩人はもっともおいしい肉を食べたはずです。もし肉が余れば隣の集落にも声をかけたかもしれません。もちろん数時間で行き来できる距離にあった場合のみですが。狩猟に貢献のあった縄文犬も内臓や骨を堪能したことでしょう。

  縄文時代は栗を栽培していたことで知られています。しかし栗は通年を通しての保存はできません。せいぜい数ヶ月です。保存できないのは貝、野草、果物など入手できるすべての食べ物についていえます。こうした社会では入手できたものはその場で集落の全員が公平、平等に食べたのです。そこには身分の上下もなく階級もなく、職による差別もありません。せいぜいもめごとを調停する村長(むらおさ)のような人はあったでしょうが、その人のみたくさん食べる、というようなことはありませんでした。

  縄文中期には熱帯ジャポニカ(陸稲)の栽培が始まります。米は保存性があります。籾(もみ)を土器に収納すれば通年保存も可能です。でも陸稲は水路を必要としません。水路を管理する権力者は不要でした。また収量が少ないため、通年保存するほどの収穫量がありませんでした。収量が少ない反面、栽培地は湿地、水辺、乾燥地を問いませんでしたから栽培地を巡る土地争いもありませんでした。

  狩猟採集の経済は集落総動員の経済でもありました。狩の時には男手総員が、栗や陸稲の収穫には集落全員が、貝や野菜採取には女手こぞって参加し、集落の食べ物を確保したのです。それらを指揮する人はせいぜい尊敬を集めるだけで特権はありません。
 
  ただ保存の効く食べ物を持っていなかったことは寒冷化にともなう土地の生産性減少には勝てませんでした。特に稲は冷涼には弱いですから、最終的に縄文の人口は減りました。しかしその減少過程においても相争った形跡はないのです。食糧不足は集落全体のことと受け止めて静かに死を待ったのかもしれません。縄文神道も争うことを戒めたのかもしれません。縄文人の自然観を人類学者は将来的には明らかにしてくれるでしょう。明日は「富」を知ってしまった弥生人について書きます。

0 件のコメント:

コメントを投稿