2010年7月30日金曜日

占領はたった5世代前

  
◆戦後、植民地を返さかったソ連 その2

  日本人捕虜集結の場となったハバロフスク(中国名・伯力)はロシア人が砦を設置してから今年が152年目。わずか5世代ほど前の話です。日本海、オホーツク海沿岸にロシア帝国が拠点を持つのはその少しあと。日本人の感覚では大昔からロシア人が対岸に住んでいた感じがしますが、実態はごく近年のことです。ネット情報によると2008年5月にはハバロフスク市開基150周年記念行事が盛大に行われ、中央部のレーニン広場とその周辺では約1万人が参加する祝賀パレードがありました、式典、祝賀コンサートに続いて夜はアムール川での船上祝賀会と花火大会が開かれ1日がかりのビックイベントだったといいます。駅前広場には花壇が作られ、銅像が整備されるなど記念施設も設けられたそうです。アジア人の土地を奪っておきながら祝賀行事をするとは現代日本人の常識から考えると違和感があります。

◇清の領土を占領

  なぜ白人であるロシア人がアジアにいるのでしょう。ハバロフスクはアムール河(中国名。黒竜江)の右岸中流域に位置し、ウスリー川との合流点のすぐ下流にあります。もともと満州人、ナナイ人などブリヤート系の人々が住んでおりました。満州人が建国した清の領土で、清は間宮海峡近くまでをその勢力圏とし、アムール河の東岸一帯は外満州と呼ばれていました。外満州に住んでいたのは日本人の祖先の一つともいわれるナナイ人、それに女真人(満州人)、モンゴル・ブリヤート系諸民族です。清は女真人保護政策のため、漢族の満州、外満州移住を厳しく禁止していました。

  ◇白人、ウラル山脈を越える

  ところが17世紀ごろから高価だった毛皮を得るためまずロシア人冒険家やいわゆるあぶれ者たちがウラル山脈を越えてシベリアに姿を見せはじめ、あとを追うようにして農牧畜民が移住、原住民から毛皮税を得るためコサック部隊が進出してきました。このハバロフスクにロシア政府が拠点を持ったのが1858年。アムール川を東進してきたロシア帝国部隊が砦(とりで)を築いたのです。17世紀のロシアの探検家エロフェイ・ハバロフにちなんでハバロフカと命名され、その後、ハバロフスクとなったのです。

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