2010年7月18日日曜日

民間人も捕虜に

  ◆シベリア抑留 その2

  優勢なソ連軍に対し関東軍は対ソ作戦を満州全土の三分の二で反撃しつつ後退、首都新京南東の長白山地を背にした通化に軍司令部を移し、満州残り三分の一でパルチザン戦を展開するという持久戦作戦を描きました。この作戦は6月14日に関東軍の各方面軍に示され、9月下旬までに全軍の移動・配備が行われる計画でした。しかし8月8日のソ連軍侵攻によって日の目をみないで終わります。

  満ソ国境の東、北、西の三方向から侵攻してきたソ連軍は当時、世界最強といわれたT34戦車を先頭に装備の不十分な日本軍を各地で撃破、あっという間に首都新京に迫まりました。これに対し日本軍は地雷を背負った兵士が敵戦車に飛び込む、という特攻作戦を展開、ほとんどが敵戦車に行き着くまでに自動小銃で撃たれ戦死していきました。関東軍はゲリラ戦に戦法を変更しようとしましたが8月15日の玉音放送を迎え、大本営から戦闘停止命令を受け、戦闘行動を中止。ソ連軍に降伏しました。ただし、一部地域においては、劣悪な通信事情や激しい戦闘状況もあって、8月後半まで戦闘が続けられたのです。ソ連軍も終戦を知りながら前面にいる日本軍と協議しようとせず、攻撃を続けた師団が相当数あったようです。これもその理由をソ連、ロシアは開示していません。悲劇はその直後から始まったのです。

  ◇日本に送らずシベリアに強制連行◇

  占領地域の日本軍はソ連軍によって武装解除されました。日本兵はダモイ(帰国)というロシア側の説明で日本に帰国できる、と思ったのですが、関東軍首脳を手始めに、続々とシベリアに送られました。さらにウラル山脈を越え遠くポーランド国境近くまで連行された部隊もあり、全ソ連に分散収容されたのです。一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着していますが、実際にはモンゴルや中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパロシアなどにも送り込まれていました。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が朽ちて残存しているそうです。

  彼らの墓地も各地に存在していますが、いまも整備されているものは極めて少ないのです。大部分の墓地は、遺骨の所在も分からないまま原野と化し、山林や農地になったところも少なくないのが実情です。墓地数も埋葬人数も不確定のままです。昭和50年に引揚援護局は、ソ連地域の州別日本人死亡者の調査を発表したが、それによるとソ連全土の日本人墓地数は332カ所、埋葬人数は4万5575人で、少なく見積もっても1万5000人以上が不明のままなのです。

  強制抑留は軍人だけではありませんでした。国際条約で禁止されている民間人の強制連行も実施、軍民含めて約107万人が連行され、行方不明者を含む推定死亡者は約34万人にも達すると言われています。行方不明を死亡と換算するなら実に死亡率31.8%という驚異的な数です。実情を過小評価しようとする厚生労働省が直接掌握しているだけでも約60万人の日本軍民がシベリアに抑留され、重労働、極寒、栄養失調でその約1割、約6万人が死亡したとされています、帰国できた人も厳しい後遺症からほぼ同数が相次ぎ死去したと推定されています。ロシアは自分たちのやったことを隠さず明らかにする義務があります。

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