2010年7月19日月曜日

極寒、重労働、飢え

 ◆シベリア抑留 その3


  ソ連は捕虜を1000人程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込みました。捕虜はソ連兵から「ダモイ(帰国)」といわれ、ナホトカ経由で祖国に帰れることを思っていました。ところが行き先は告げられず、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望した人が多かったのです。「シベリア送り」は、ソ連国内でも反革命分子とされた人間に課されたもので、ソ連建国当初から行われていました。日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、氷点下40度にも達する極寒のなかで、厳しいノルマを科せられた重労働が待っていました。

 ◇3重苦の捕虜収容所◇

  労働は鉄道建設、森林伐採、鉱山採掘、農業など肉体を酷使するものでした。しかも食事は小さな黒パン一切れと岩塩スープといった過酷なもので、ある将校が自分たちに出された食事のカロリー計算をしたところ生存に必要な量の30%しかなかったといいます。その抑留期間は2年から4年、長い人は10年も収容され、飢えと寒さの中で 強制労働に従事させられた日本兵は次々死亡。全体の1割に当たる6万人が帰らぬ人となりました(厚生労働省把握分)。幸い帰国できた人も三重苦の後遺症のため帰国直後に次々死亡、ほぼ同数の6万人が犠牲になったとみられています。実際は約34万人が現地で死亡したと推定されます。

  数字がこんなに違うのは連行が満州だけでなく南樺太、千島諸島、歯舞色丹、北朝鮮、内蒙古などソ連が侵略した全域に及んだこと。軍人だけでなく開拓民、看護婦、電話交換手、会社員、商人など男女を問わず、子供まで含まれることです。また戦闘中や連行途中に死亡した人も多く、開拓民のように集団自決した人も含まれます。要するに不法なロシア侵略による犠牲者は少なくても34万人いるということです。今となってはこれらの方々がどこでどう亡くなったかは調べようがありません。

  ◇全滅した収容所も◇

  特に死亡者が多く出たのは、バム鉄道(バイカルとアムール地区を結ぶ第二シベリア鉄道)の建設・維持工事に駆り出された捕虜で、シベリア鉄道よりはるかに北極圏寄りにあり、苛酷な労役と極度の寒さ、栄養失調から倒れる者が続出しました。死者が出るたびに欠員補充が絶えず行われたため、死者数など実態の確認が現在でも分かっていません。なかでもタイシェットとブラーツク間では、鉄道沿線の両側に収容所が目白押しに建てられ、死亡者の比率が最も高い地域となりました。研究者の調べでは死亡率60%という悲惨な収容所もありました。バム鉄道が今日あるのはひとえに日本人捕虜によるものといえましょう。体力がないため伝染病の発生もすさまじく、ヨーロッパロシアでは事実上、全滅した収容所もあったそうです。

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