2010年7月17日土曜日

ソ連、不可侵条約を破棄して侵略

 ◆シベリア抑留 その1

   第2次世界大戦後、満州、北朝鮮、樺太などからソ連に強制連行され、極寒のシベリアやモンゴルで過酷な労働に従事させられた日本人抑留者に特別給付金を支給する特別措置法が国会で成立してから1カ月。参院選の陰に隠れてあまり報道されませんでしたが、抑留者遺族などからは「死没者は対象にならないのか」と各政党に抗議の声が上がっています。これについては今後、政府と各政党の対応を期待したいのですが、なぜ強制抑留という悲惨な事態が発生したのか、残念ながら60代以下の国民はほとんどその事実を知りません。

  私の父は大戦中、満州で税務署の仕事をしていましたが、日本男子根こそぎ動員で召集され、朝満国境付近で捕虜になったシベリア抑留兵です。極寒、飢え、重労働の三重苦による死の直前、やっと生還したものの、帰国後、10年あまりで後遺症により死亡しました。父不在の中、私自身も妹とともに母に連れられ、満州の荒野をさまよい、あやうく残留孤児になるところでした。父が、アメリカや中国の捕虜になった人たちのように終戦後、そのまま帰国できていれば我が家の戦後の姿は大幅に変わっていたでしょう。

   強制抑留は民間人を含めて約107万人が連行され、行方不明者を含む推定死亡者は約34万人にも達すると言われています。私は昭和19年7月上旬、4日間の日程でロシア・ハバロフスク市を訪問、シベリア抑留日本兵犠牲者の墓参と犠牲者の解脱供養法要に参加してきました。

  「シベリア抑留」と言われても、いまや知らない人が圧倒的多数になりつつあります。このような悲惨な事実が、なぜ起こったのでしょうか。関係者が少なくなりつつある今、その実情を皆様に紹介するのが「国際派日本人の基礎教養講座」の任務だと思います。以下の文は私が昭和19年から20年にかけインターネット新聞「オーマイニュース」と郷土誌「季刊鳥取」に掲載したものを基に、新資料も含め全面的に書き換えたものです。

   ◇ソ連軍、無条件降伏の日本軍を攻撃◇

  第2次世界大戦末期の昭和20年8月8日深夜、ソ連は日本に対して一方的に日ソ不可侵条約を破棄して宣戦布告しました。その宣戦布告が日本に伝わらないよう、モスクワの日本大使館の通信を遮断し、1時間後に満州を奇襲攻撃しました。日本は同15日にポツダム宣言受諾を発表、無条件降伏したしもかかわらず、ソ連は同16日には南樺太、同18日に千島列島を武力攻撃、自衛上、抵抗した日本兵に無益な戦死者を続出させました。無条件降伏をした国家の軍を攻撃するという戦争史に例をみない残虐行為についてソ連、ロシアとも関係文書をいっさい公開していません。一説には日露戦争で負けた腹いせをした、と伝えられています。

  ソ連ははドイツが5月7日に無条件降伏すると、密かに兵をシベリア鉄道で満洲国境に送り、条約違反を知りつつ対日戦に参加する準備をしていました。日本側もソ連の動向に着目。7月1日、大本営が入手した情報によると、満ソ国境の周辺に展開されたソ連軍は約55万人。戦車2000輌、飛行機4000機、各種火砲7000門。しかもシベリア鉄道で大兵力の移動が続いていました。しかし日本側の情報分析は甘かったのです。実際に国境を突破したのは兵員157万人、戦車自走砲5500両、飛行機3400機、各種火砲火2万6000門(ソ連側の戦後公式文書)。飛行機こそ日本側の予想を下回ったものの圧倒的兵力でした。

  対する関東軍(満州にいた日本軍)の配備兵力は、質、量とも貧弱で兵員は半数以下の70万人。在満日本人男子を根こそぎ動員した高齢者師団が多く、小銃も10人に1丁という低装備部隊もありました。精鋭師団を南方作戦に抽出され、師団総合戦力は精鋭師団の30パーセント程度まで低下していました。特に戦車は装甲の薄い軽戦車を主体にわずか200両、飛行機も200機程度しかなく、火砲にいたっては1000門ほどしかありませんせんでした。劣勢は当初から予想されたことだったのです。

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