2010年7月8日木曜日

土地を巡る争いが発生

 ◆世襲を強め階級が発生

  弥生時代の最大の特色は温帯ジャポニカ(水稲)を栽培したことです。長江(揚子江)付近から押し出されるように九州に移住してきた渡来系弥生人は現地で栽培していた水稲の籾(もみ)を持ってきました。湿地帯や水辺に植えますと長江とほぼ同緯度だった九州では良く育ちました。しかも最初からスキ、クワなど木製の農具を持って来ましたから農耕に不自由はありません。弥生初期から水田稲作農耕がかなり高度な水準に達していたことを物語っています。水稲は陸稲に比べはるかに生産性が高く通年保存が効きます。自然に依存した縄文時代に比べ飢えは大幅に減りました。

  水稲栽培の開始により人口が増加し、その人口を維持するためさらに水田が必要となります。収穫率のいい土地を手にしたものと、しないものとの間の格差が開き、土地をめぐる争いも起きるようになりました。さらにかんがい用の水路をどう掘削しどう管理するかが大きな問題となります。いわゆる水争いの発生です。これを調停するには権力と小規模ながら武力も必要となってきます。生産性が高いことから余剰労働力も生みだしました。この余剰労働力が支配者、交易商人、工人など専門職になっていくわけです。いわゆる支配層と被支配層、水路管理者、祭儀を司る人、職による階層、身分関係などが生じ、その職は専門性、技術、技能が必要とされることから世襲的な色彩を強めていきます。階級の発生です。

  弥生時代の日本を描いた魏志倭人伝によりますと支配層は大人と呼ばれ、一般的身分層は下戸、奴隷身分は生口と言われたそうです。こうした階層の存在を裏付けるのが弥生時代の墳墓です。弥生時代中期になるとそれまでとは異なり、多くの副葬品や墳丘などを持つ「王墓」とも言える墓が出現してきます。さらに古墳時代になると前方後円墳が出現、事実上の王制が誕生してくるのです。下戸の墓はあるかないか分からない程度のものです。奴隷になると墓らしきものも確認されていません。


  争いは初期は集落内だけでしたが、権力によって集落がまとまると、今度は集落対集落の争いが始まりました。環濠集落の誕生です。強い集落が弱い集落を次々支配下に収め、やがてクニと呼ばれるミニ国家が発生します。ミニ国家同士も争います。戦闘では金属器の剣が武器の主流となり、戦闘の指導者が次第に社会の指導者として成長し、首長としての身分を確立していったと考えられます。水田稲作農耕はこうして社会変革の原動力となっていったのです。

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