2010年7月13日火曜日

現日本人を形成

  ◆比較的すんなりいった縄文人と弥生人の結合

  渡来系弥生人が九州に上陸、次第に東日本に進出したことは何回も書きました。それではすんなり先住民族である縄文人と新渡来人の弥生人は融合したのでしょうか。

  渡来人に土地を奪われる形となる縄文人たちはもちろん抵抗しました。小競り合いや集落同士の戦争はしょっちゅうあったはずです。でもこれに対し渡来人も縄文人も防衛の拠点となる環濠集落をつくった形跡がないのです。弥生人がつくった環濠集落はずっと後の時代で、同じ弥生人に対するものなのです。同族に対する備えより、異民族に対する備えの方が甘かったのです。

  渡来系弥生人は縄文人を強敵とはみていなかったようです。それは地球寒冷化により縄文人が減少しており、日本列島にいた縄文人はわずか7万5000人程度だったことも一因でしょう。それも大半は東日本に居住、九州にはまばらにしかいませんでした。当初は遭遇する機会も少なかったはずです。

  それでも渡来系弥生人集落と縄文集落が近くにあると土地そのものは競合します。弥生人が開墾するとその分だけ縄文人の狩猟採集経済に影響を与えます。小競り合いは当然発生するのです。でも両者は自分にないいいものを相手が持っていることを発見します。縄文人にとっては貴重品だった米を、弥生人にとっては入手がやや困難だった獣肉や貝を相手は持っていたのです。ここで物々交換が始まります。

また縄文人は陸稲栽培という稲作の基本技術を持っていました。物々交換を重ねるうち水稲が陸稲の何倍もの生産性を持つことを見抜きます。栽培技術が欲しくてなりません。末子相続だった弥生人の長男、次男は縄文人の持つ水田適地が欲しくてなりません。こうして長男次男たちは縄文人の娘のところに入り婿し、水田技術を集落に教えるとともに自らも水田を開墾します。娘の親は一家の長老格となり、すべてがうまく納まります。またこれによって同族同士の近親結婚を防ぐこともできました。

  こうした事情を裏付ける史料が日本書紀にあります。天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移ります。そしてその地に住んでいた豪族の娘、木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とし、その一族は大いに繁栄、その子孫は天皇家となる-というものです。

  また初代天皇に即位されたという神武天皇も奈良盆地で歩いていたイスケヨリ姫に一目ぼれし后にします。イスケヨリ姫は土地の娘でしたから縄文人の血が入っていたことは当然想像されます。

  弥生人と縄文人の共通した認識は森を大切にしたことでした。渡来系弥生人は水田かんがいに森は欠かせないことを認識していましたし、縄文人も森があっての生活でしたから両者の自然認識は一致していました。幸せな出会い、というべきです。

  異民族同士の出会いはどことも悲惨なものです。近代でもアメリカに上陸したイギリス人のピューリタントは森の民だったインディアンを攻撃、土地を奪い、それに続いた白人たちは森の大陸だった北米を綿花、小麦、牧場などに変え、自然を収奪していきました。土地を奪われたインディアンは人口が大幅に減少、小数民族になってしまいました。今では居留地で酒を飲んで暮らすしか能のない立場に追い込まれています。弥生人は縄文人と血縁関係を強める中で現日本人を形成して行ったのです。

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