2010年7月25日日曜日

中隊長の英断で百数十人が無事帰国

、  ◆満州最北端から釜山まで大撤退行 その1
   
 「シベリア抑留」8回の連載はいかがだったでしょう。ソ連がいかに国際法を無視し残虐行為をしたことがよく分かったと思います。ソ連参戦から間もなく65年が経とうとしています。あの第二次世界大戦に遭遇した多くの人々が鬼籍に入りつつある今、当時の体験を残しておかないと永遠に忘れさられてしまうことが余りにも多いと最近、感じています。満州で戦った日本兵はそのほとんどがソ連に抑留され、想像を絶する過酷な強制労働と極寒、飢えで多くが死亡しました。また連行された軍人、一般民間人、満蒙開拓団、青少年義勇軍、女性54万人余りがいまだ生死不明、未帰還なのです。そうしたなか中隊長の英断で、武装解除前に南下行動に移り、満州東部方面の佳木斯(ジャムス)、寧安経由で朝鮮国境の図們江(朝鮮語、豆満江)を渡って朝鮮に逃れ、抑留を避けられた中隊もありました。中隊長の英断で百数十人が無事帰国できたのです。朝鮮では中隊を解散しての撤退行となったのですが、その途中にソ連の捕虜となり、決死の脱走をして無事、日本に帰国した兵士の一人の記録をここに残したいと思います。昔、「大脱走」というアメリカ映画がありましたが、あの映画なんてこの実話に比べればまさに、月とスッポンの感じがします。軍命令に捕らわれずこういう生き方をした日本人もあったということを知っていただきたいと思います。

  その兵士は鳥取市在住の岩本邦男さん(85歳)。残念ながら岩本さんは仮名で、この記事に出てくる人たちはすべて仮名です。現在は内外の法的責任を問われることはありませんが、当時の各国法規では敗戦国の日本人という立場では触法行為になる可能性もあり、岩本さんの強い希望により仮名としました。しかしすべて実在の方々であることを明記します。

  ◇楽しかった青春時代◇

  岩本さんは学業終了後、神戸製鋼の子会社大日本塩業(本社・東京蒲田区・現大田区)に入社、引き続き朝鮮・満州国境沿いの朝鮮側鴨緑江河口にあった新義州の工場で、海水からマグネシュウムを採取する仕事に携わっていました。マグネシュウムは飛行機の材料になり、貴重な資源だったのです。仕事はおもしろく給与も十分にあり、日曜日にはよく鴨緑江を越えて満州・丹東市(安東市)に遊びに行き中国料理を食べたりしていました。両岸の税関職員たちと仲良しだったので、通関は大目にみてもらい、二頭立ての馬車で通境したといいます。楽しい青春時代だったのです。現在、北朝鮮の首都である平壌(ピョンヤン)にも大同江近くに社宅があり、よく出張で泊めてもらっていました。その時の経験が後の自分を救うことになるのです。

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