2010年7月20日火曜日

民間人も捕虜に

  ◆シベリア抑留 その5

 個人的なことを記すと私・松本の父もシベリア抑留兵で、満州・奉天(現瀋陽)で税務署に勤めていましたが終戦間際の根こそぎ動員で召集され、満州・朝鮮国境の守備についたところで敗戦、ヤクーツク自治共和国のウランウデの収容所で強制労働を強いられました。極寒、重労働、飢えの中で「あすは松本が死ぬ」といわれながら、なんとか生き延び帰国できました、しかし三重苦の後遺症から10余年後には死亡、母が保険外務員の仕事をして一家を支えてきました。両親に心より感謝します。 合掌

  ◇縦穴式収容所も

  シベリアの収容所は、抑留者がテント生活をしながら、あり合わせの材料でその土地の状況に合わせて作った粗末なものが多く、このほかドイツ人捕虜が入っていた収容所跡地、ロシア人の囚人が入っていた刑務所の利用もあったようです。短期の移動にはテントも利用されました。日本人の抑留者によって作られた収容所建物は、縦穴式、半地下式、盛り土箱型が多く、これでは極寒は過ごせません。条件の良かった工場近辺では家屋型もありました。都市周辺の既存の建物は将校収容所に当てられました。建物の中は立って歩けない低さのものから2段、3段の蚕棚式まで種々雑多だったようです。最初の一年は旧軍隊の階級制度が収容所でも残り、上官がストーブ近くの良い場所を占めるケースが多かったのです。暖房が十分届かぬ兵は食料不足も加わり、厳寒期に多くの死亡者を出ました。

  ◇民間人女性も捕虜に

  問題は本来、捕虜といえない捕虜の存在です。ソ連占領地では日本軍将兵だけでなく、官吏、会社員、商店主など民間人、それに満蒙開拓移民団員が片っ端からソ連軍に捕まり強制抑留されました。さらには日赤看護婦、軍関係の事務職員だった女性も含まれていました。性的暴行を受けた女性も多く自決者が相次ぎました。日ソの停戦交渉ではソ連は在留邦人の保護を行なう諒解が成立していたにもかかわらずの拉致です。ハーグ陸戦協定をはじめ国際間の交戦規定では民間人の捕虜は禁じられており、ソ連はこれについて一切の釈明をしておりません。

  ◇死亡者37万4000人説も

  これまで厚生労働省の調べで死者は約6万人とされてきましたが民間人を含めると少なすぎるという指摘がありました。近年、ソ連崩壊後の一部資料公開によって実態が少しずつ明らかになりつつあります。日露双方の資料を突き合わせると終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6000人の日本人がいましたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られています。200万人以上(ワレンチン・アルハンゲリスキーの著作およびダグラス・マッカーサー元帥の統計より)との説もあります。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千人で、事実上、約34万人の日本人が死亡したといえます。また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もあります。

  ロシア側のより積極的な資料公開が非人道的措置を取ったロシアの義務といえましょう。日本政府は資料の公開を求めてもっと積極的にロシアにアプローチしなければなりません。その点、ドイツは個人個人の名前を挙げてしつこくロシアと交渉し、相当数解明しているそうです。日本政府の淡白さが残念でなりません。

1 件のコメント:

  1. 清雅坊です。

     変なことになりました。「シベリア抑留 その4」は20日(火)に編集、21日(水)に投稿しましたのに20日(火)の日付で出てしまいました。編集した日が投稿日になるのでしょうか、以前にも似たような事態が発生しました。事情が分かる方は是非、メールください。メールアドレスは

     a-gama@m.email.ne.jp

    です。よろしくお願い申し上げます。

                          合掌

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