2010年7月12日月曜日

祭器化した青銅製の武器

  ◆弥生神道の誕生

  弥生人が尊崇したのは太陽と鳥だと書きました。それは弥生の宗教、弥生神道へと発展していきます。その過程で縄文神道との融合、吸収も当然、あったでしょう。縄文神道の具体的な教義は縄文人が文字を残さなかった(文字を持っていた、という説もあります)ことから分かりません。しかしその一部に祖先崇拝があったことは間違いなく、弥生人が実感していた祖霊崇拝と合わさり、比較的簡単に弥生神道ができあがった、と想像されます。

  弥生神道は水田稲作を確実なものにしてくれる太陽と太陽を運ぶ鳥、そして水田開墾をしてくれた先祖への感謝の気持ちでした。長江付近から東シナ海を越えて日本列島にきた渡来系弥生人は舟に家族と稲籾、何種類かの作物種子、木製農耕具、それに犬、イノシシ(後の豚)、鶏を積んできました。上陸地点で水辺、沼、湿地帯などをみつけると稲を播種(はしゅ)、とりあえずその年の収穫を目指します。

  当時は推測ですが田植えの技術はまだ確立されておらず、籾を直接、湿地地帯などに播種したとみられます。いわゆる直播です。さらに畔(あぜ)をつくり籾の流出を防ぎます。籾は水深が深すぎると発芽しません。付近の土を入れて適度の水深をつくります。翌年は土を取った跡地には水路を引き田とします。また海岸べりまでうっそうと茂っていた照葉樹林を伐採、水田をつくりました。開墾前には付近の水路を十分調査、高低差などを割り出し、開墾していく地域全体の灌漑用水水路の設計をします。こうして一家、一族、一集落が食べていけるだけの水田を開墾していきました。

  この時代は末子相続でした。成長した長男、次男は新たな土地を求めて集落を出ます。そして新たな開墾者になるわけです。子孫からみると開墾してくれた先祖はまさに命の恩人で、先祖があって始めて自分がある、という思いを強くしたことでしょう。当然、祖霊崇拝につながるわけです。

  これが弥生の中期になると水田、富をめぐり集落同士、クニ同士の争いとなり、勝者は支配者となります。子孫からみるとその勝者は自分たちの立場をつくってくれた人ですから尊崇しないわけにいきません。祖霊崇拝がされに強まるわけです。

   さらに時代が進むと祖霊祭祀の対象となる墳丘墓と祭殿などの祭祀空間が生まれます。祖先が戦いに使った青銅製の武器が大型化し実用品から祭器となっていきました。武器の祭器化は武器形祭器を用いた戦神・軍事的祭儀が祖霊祭祀と合わせて社会結合の重要な構成要素となっていったことの表れといえます。この段階では、「クニ」の領土拡張、あるいは「クニ」の領土防衛といった戦略的戦いが行われるようになったと考えられます。弥生はやはり戦争の時代なのですね 。

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