2010年7月3日土曜日

高地に環濠 戦争を前提の集落

 ◆妻木晩田遺跡

私がこれまでもっとも感動的だった弥生遺跡は鳥取県米子市から大山町にかけて広がる妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)です。国内最大級の弥生集落遺跡で、面積は170ヘクタールにもなります。これは吉野ヶ里遺跡の約3倍もある広大なもので、とても全体像は把握できません。その遺跡は標高90~120メートル前後の尾根上を中心に立地し、平野部と比べると約100メートル前後も高いところにあります。竪穴住居400基、掘建柱建物跡500基、四隅突出型墳丘墓などの墓24基などがみつかっています。最西端には環壕がありました。弥生中期終わりごろから古墳時代初頭までの遺跡です。

こんな高いところに環濠まで持って、こんなたくさんの人々が防衛的に生活する、ということは周辺にそれだけの敵がいたんだな、といつも思うのです。その敵がどこにいたのか今はまだ分かっていません。妻木晩田に匹敵するような集落が近くに見つかっていないからです。見晴らしは良くても生活するのはさぞ不便だったのでは、と感じます。稲をつくるため約100メートルも降りなければならないからです。このような集落を高地性集落といいます。敵のいなかった縄文人も高地に住んでいました。洪水を避けるため高地にいたようです。狩猟採集経済では見晴らしなど高地の方が都合のいい場合もありました。しかし弥生人の場合は明らかに防衛目的でした。彼らはなぜ戦争をするのか、これから考えていきたいと思います。

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