2010年7月20日火曜日

ミイラのような餓死者

◆シベリア抑留 その4

  これについて捕虜だった故岡本輝雄さんは「MRジャーナル」に「シベリア抑留の生々しい記録」と題した遺稿を寄せられました。オーマイニュース掲載時に、掲載ご許可をいただきましたのでその一部を紹介すると

  ◇1日に10人を越える死者

  半ば餓死状態で死亡した兵隊たちは、一糸も纏わず遺体置き場に野ざらしにされた。それは、骨に皮がくっついただけのミイラのようであった。

   しかし気が付くと、生きている私達の様相も死者とあまり変わらなかった。私自身もあばら骨が胸にはっきりと浮かび上がっているのを見てぞっとする。

  作業に駆り出されて途中で意識を失って死ぬ者も現れる。このラーゲル(収容所)に来てから一ヶ月も経たないのに、私達の収容されている建物の死者は三十名を越えた。

  当初は、死者が出た班でその埋葬を担当していたが、もうそれでは追いつかなくなってきた。埋葬場はラーゲルから少し上の小高い丘を切り開いて作られていた。土は固く凍っているので、 立ち枯れの木を伐採して運び、積み上げて一昼夜ほど燃やす。土が融けて軟らかくなったところを見極めて、素早く掘って死体を埋める。

  はじめは、一人づつ埋められて、そこに立てられた杭に死体番号と名前が書かれていた。だが、このラーゲルに来て一ヶ月も過ぎた一九四六年(昭和二十一年)一月になると、死者の数は一日に十人を超えるようになり、一人づつ埋めていたのでは処理できなくなった。

  いかにすさまじい収容状況であったか絶句するだけです。

 ◇松葉を食う◇

  北朝鮮・平壌で捕虜になった元鳥取県議会議長の井上万吉男さん(米子市・全国強制抑留者協会常務理事)は私の取材に「ウラジオストックに連行された。黒パンなんてそんないい食事は出たことがない。コーリャン、豆、燕麦の雑炊だった。ひどいときは小豆の塩煮を1月も食べさせられた。入ソ2年目にはほとんどの抑留者が重労働と食料不足により栄養失調になった。中でも青物、野菜はは一切支給されず、ビタミンCの不足から体中に紫色の斑点ができ、一人歩きもできない状態となった」と話された。

  炊事班長だった井上さんは収容所近くでは青物は松葉しかないことから松葉を採ってきて雑炊に入れて皆に食べさせ、やっと斑点が薄くなったそうです。松葉で飢えをしのいだわけで、ソ連の過酷な待遇がしのばれます。

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