2010年7月28日水曜日

朝鮮保安隊に捕まる

  ◆満州最北端から釜山まで大撤退行 その4

 平壌から北朝鮮・韓国との軍事境界線(38度線)まで約240キロ。南下途中にあった年寄り夫婦の朝鮮人民家で軍服と作業衣を交換、南下を続けましたが5人ともあっさり朝鮮保安隊に捕まり平壌駅まで連行されてしまいました。ソ連軍将校の前に突き出され「服を脱げ」と命令されます。フンドシ1枚になるとフンドシの注記は日本語。日本人とばれてしまい女学校の炭小屋らしきところに入れられてしまいました。フンドシまで交換することは思いよらなかったのです。監視のソ連兵の動きを観察していると20分ごとに見回りにきます。炭小屋だから脱出はそれほど難しくはないとにらんで、ソ連兵を逆監視しました。

   ◇ 脱走!南へ逃避行◇

  2日目、ソ連兵のすきを見て窓を音がせぬよう壊して5人とも脱走、南へ、南へと向かいました。時計も磁石もありませんから太陽の位置をみて南を判断。谷あり、山あり、ジャングルありの中を歩き続けました。まともな食料はなく谷水をすすりました。16-17日くらい歩いた時でしょうか、夜間、山上から下を見ると、河があり両岸とも車のライトが走っています。南岸のライトはジープらしきライトで米軍のものと判断。河を渡ることにしました。もちろん橋らしきものはなく、5人とも服を脱ぎ、間隔をおいて泳いで渡りはじめました。しかし東京出身の一人はソ連兵に発見され銃撃を受けました。そしてとうとう泳ぎつけませんでした。
 
   ◇ 米軍に遭遇、自己申告◇

  残された4人はやむを得ず歩き続け、現在は北朝鮮となっている開城を過ぎ、沙里院を通過、汶山で米軍の天幕を発見。近づくと米兵が5,6人いて、英語を話せる田口君が事情を話しました。パン、チョコレート、牛乳などをもらい、そのおいしさに感激。さらに米軍軍用車でソウルまで送ってもらったのです。平壌のソ連軍とは応対が大違いです。ソウル市内の日本寺院で5泊し、朝鮮総督府で引揚証明を発行してもらい、米軍列車で釜山港に到着。引揚船で九州・博多に上陸、山陰線経由で無事、郷里の鳥取に帰れたのは昭和20年10月25日。日本の秋は目にしみる美しさでした。

  ソ連侵攻当時の関東軍は約70万人。そのほとんどがシベリア抑留となり極寒と重労働、栄養失調から6万人とも30万人ともいわれる将兵が帰らぬ人となりました。一般邦人155万人のうち20万人が死亡し、満蒙開拓団約24万人のうち7万人前後が死んでいると想像されます。その結果、栄養失調にかかった多くの日本人孤児が発生、そのうち錦河省壷濾(コロ島)に集結できた孤児はたった300人余り。米軍の工作船で日本各地に送還されたといいます。ソ連軍の残虐な行為と暴民化した中国軍民の仕業で孤児のほとんどが行方布明になり、いまだにその消息は分かりません。日ソ戦争は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、宣戦布告が日本側に伝わるのを阻止した上で侵攻したソ連に最大の責任があります。

  岩本さんらの中隊の相当数の人が日本に無事帰れたのも中隊長の「1歩でも日本に近いところへ」という判断があってのことです。軍命令に従って交戦、残留を続ければ無残な抑留兵となって飢えと寒さと重労働で多くの人が死んだでしょう。中隊長の英断は公式記録には残されていません。しかしそういう生き方をした人もあったということを我々は記憶に留めておきたいものです。

  「満州最北端から釜山まで大撤退行」終わり


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