2010年7月27日火曜日

車から落ちても収容せず

◆満州最北端から釜山まで大撤退行 その3

悪路が続きます。6、7人が車から転落、死亡しましたが収容する余裕はなく放置したまま逃避を続けました。そのうち昼間の行動はできなくなり夜間のみの走行となります。鳥取部隊がいた延吉を通過、ついに国境の鴨緑江上流に到着しました。しかし橋はなく水深3㍍、幅15㍍はありました。中隊長は近くの朝鮮部落の人と話し合い、山の木を切って橋を渡し無事、渡河に成功しました。お礼に約束していた塩、食料を渡したのは言うまでもありません。

  9月半ばになっていました。朝鮮側には10人程度の日本軍憲兵がいて南下をうながしましたが「本隊と連絡が取れない」と断られ、車1台を置いて別れました。残留した憲兵はその後、ソ連軍に捕まり、憲兵ということで残虐な目にあってはいないかと心配されます。敗戦となっても軍という組織の体制に忠実なのがいいのか、敗戦という状況を見極めて行動するのがいいのか、その人の判断能力と運が問われる出来事でした。


   ◇ 朝鮮保安隊に遭遇◇

  北朝鮮での南下も夜間に限られました。大きな道路は通れないので、トラックがぎりぎり通れる道を選んで平壌を目指して進んでいきました。当時、平壌はソ連軍が占拠していました。平壌まで20キロという地点で朝鮮保安隊(共産党)に遭遇しました。保安隊は日本敗戦とともに朝鮮共産党が結成した武装部隊でソ連軍と連携していました。保安隊は銃に実弾を込め、いつでも撃てる態勢を組んでいました。中隊長は車両すべてを渡すことで無事通過の交渉をまとめあげました。このとき部隊に同行していたのは172人前後。その後は2-5人単位で別れて行動することになり、酒を交わして内地で会う約束をしました。そのとき岩本さんは何者かに拳銃2丁、時計、ヒゲソリを取られてしまいました。武器がなくなったのです。

  岩本さんは5人組みで平壌を目指すことにしました。平壌には出張したことがあり、多少、地理を知っていたためでしだ。徒歩での夜間行軍となりました。つかまればソ連軍に渡されます。夜間行動中、明らかに日本人と分かる人たちが北上していました。聞くと父や兄弟、親戚が満州におり、そこに行く、というのです。この判断もその人の状況把握能力と運によるものなのです。無事満州に着いても結果的にみればソ連軍の捕虜となり、過酷なシベリア送りが待ち構えていたのですから。その時の判断はなんとも言い難いものがあります。

  やっとの思いで大日本塩業の社宅近くまできたが、あの大同江を渡らねばなりません。しかし橋の両端には保安隊とソ連兵らしきものがおり、すきをみて裸になって泳いで渡りました。やっとの思いで3軒ある社宅のうち泊めてもらったことのある加島さん宅のドアをノックしますが、人の気配はあるものの誰も出てきません。当たり前でのことです。真夜中の強盗と思われても仕方がありません。「泊めてもらったことのある岩本です」と小声で言うとやっと扉が開きました。主人は出征中で奥さんと14歳の男の子がいました。5人で3日間泊めてもらい、涙の別れとなりました。

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