2010年6月29日火曜日

弥生時代 500年早まる

 ◆開発された高精度炭素14年代測定法

  28日の記事で弥生時代の開始年代は紀元前800年が妥当だろう、と書きました。ところが「お前はブログの最初のころは紀元前300年、といっておきながら500年もさかのぼるとは朝令暮改だ。その根拠を示せ」とお叱りを受けました。ごもっともです。紀元前300年説は常識的な理解で、NHK教育テレビの高校歴史などでもこの年代を採用しています。私もこの年代を前提に講座をはじめましたが、書いているうち大陸との整合性がどうしても紀元前300年では説明がつきません。それで紀元前800年説に転換してしまいました。その根拠を説明します。最近のすばらしい年代測定技術の進歩がその背景にあります。


  国立歴史民俗博物館などの資料によりますと、最新の土器、木材などの実年代測定法は以前書きました年輪年代測定法とが併用され、ほぼ正確な年代決定ができるようになりました。すこし昔まで炭素14年代測定法なんて誤差が大きくてとても信用ならん、という研究者がたくさんいました。場合によっては何百年、何千年も違うのです。ところが1977年に AMS法(加速器質量分析法)という高感度高精度測定法が提案され、その後の開発によって高精度化が進みました。


  原理はこうです。自然界の炭素原子は炭素12、炭素13、炭素14の3つの同位体の混合物です。このうち炭素14は5730年の半減期をもつ放射性同位体で、大気から生物に取り込まれると5730年後には半減します。この炭素14の量を調べるとその生物が死滅してから何年たつか、が分かるわけです。ところがこれまでの測定法では誤差が多いことから開発されたのが AMS法です。同法は加速器によってイオンを加速し、直接一個一個検出して正確にその同位体濃度を測定するのです。炭素14だけでなく炭素12,炭素13も質量を比較検出します。従来の放射線で測定する場合に比べて千分の1の試料量での正確な年代測定が可能となりました。 さらに年輪年代との照合で補正。太陽活動や大気の炭素濃度も加味し高感度高精度の測定ができるようになったのです。


  これを基に九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期にかけての土器に付着していた炭化物などの年代を、AMS法による炭素14年代測定法によって計測したところ、紀元前約900~800年前と分かったのです。これまでは紀元前300年ごろと推定されていたのが500―600年も早くなったのです。


  国立歴史民俗博物館では現在、遺物の年代測定を片っ端から行っていますがいずれも同様な傾向がでました。縄文時代の終わりも従来の紀元前300年ごろから紀元前800-900年ごろ、ことによったら紀元前1000年になりそうです。ところでこれらの測定は土器そのものについて行うのではありません。土器に付着しているコゲやススを中心に、遺跡から出た炭化物、木材、堅果などの試料を調査するのです。もしあなたが偶然に土器を発見したら絶対さわらないでくださいね。土器を洗うなんてもってのほかです。付着しているもので年代測定するのです。あなたの手垢が土器についたら現代の土器になってしまいますよ。

  <お断り>30日は帰宅が深夜になりそうです。残念ながらお休みにさせてください。

2010年6月28日月曜日

年速2.5キロで東へ

 ◆広まった水田稲作

弥生時代の始まりは紀元前800年前にさかのぼる、と記しましたら読者の方から最近は紀元前10世紀にさかのぼる、という説もある、との指摘を受けました。私もそれは知っていたのですが、弥生の始まりは学説により紀元前300年から紀元前1000年と大幅に開きがあります。そのどれを取るかは何を力点にして弥生のスタートとするか、という価値判断であり、私は現時点では紀元前800年が妥当な線だろうと考えています。ただ全体としては弥生のスタートはさかのぼる傾向にあり、ごく近い将来、紀元前1000年が常識となるかもしれません。

さて弥生時代の最大のエポックは水田稲作の始まりです。念のため縄文末期にはすでに水田稲作が一部でされていたことも事実のようです。その水田稲作は九州をスタートに東に広がっていきまいた。近畿南部に伝播するまでに約300年、南関東までは700年近くで到達しました。紀元0年前後にはなんと北緯41度まで北上しました。青森県の下北半島です。本州最北端まで800年で到着したわけですね。これを早いと見るかゆったりと見るか、研究者によって見解は異なりますが、その距離はざっと2000キロですから年間2.5キロの東進速度となります。水田造りは開墾、整地(地面を平らにする)、あぜ作り、水路開削と極めて複雑です。それを年間2.5キロの速度で切り開いていくのですから、私は弥生人の意欲に心から敬服します。

津軽の田舎館(いなかだて)遺跡では、2000年前の水田跡が見つかっています。広範囲に整然とした水田の小区画がたくさん広がっており、なかには人間の足跡もありました。それも大人、子供の足跡が見つかっており、家族総出で水田経営と取り組んでいるのが垣間見れます。田舎館遺跡では水稲の温帯ジャポニカと陸稲の熱帯ジャポニカの雑種を植えていたことが分かっています。雑種を植えながら、次第に全体的に水稲に変わっていったのです。 温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの雑種は比較的、冷涼に強く、この特性を田舎館の人々は見抜いて栽培していったのでしょう。

縄文時代の稲は熱帯ジャポニカでした。日本列島では、かなり長い年月にわたって稲作に対する経験が蓄積されていたのです。そこへ弥生時代になって温帯ジャポニカが外来文化とともにもたらされました。適応は割合簡単だったと思います。

熱帯ジャポニカの自然の生息環境は、ある時は乾いた土地、ある時は水たまりのような湿地です。南方系縄文人によっておそらく他の雑穀などとともに日本にもたらされ、未分化な環境の中でしっかり日本に根付いたのです。縄文人はこの熱帯ジャポニカを主に湿地帯やそれにつながる土壌に植え、稲作の経験を積んだのです。そこへ弥生人が持ち込んだ温帯ジャポニカが混じり、次第に水田化していったと思われます。年速2.5キロの東進速度もあながち無理とはいえないでしょう。

2010年6月26日土曜日

温帯ジャポニカ種の水稲を持参

 ◆百越は弥生人と同じ文化

  東シナ海を渡って渡来系弥生人になったのは「百越」と呼ばれる人たちであった、と昨日、書きました。ではその百越と呼ばれる人たちはどのような人種だったのでしょう。漢族の古いことわざに「北方胡(こ)南方越」という言葉があります。黄河中流の中原と呼ばれる地域が活動の主体だった漢族にとって最大の敵だった民族のことを言っているのです。北にいた胡人、南にいた越人を指します。

  胡人は今でいう蒙古人、満州人、ウイグル族などを指し、騎馬遊牧民族です。越人は長江以南にいた民族で、現在は漢族化され具体的イメージはありませんが、福建省、広東省、ベトナムに住む人々にその血が流れています。水田稲作を生業にしていた民族で漁労にも長けていました。越人は古代には百越(ひゃくえつ)あるいは百越族と呼ばれ、主に江南と呼ばれた長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいました。越諸族の総称です。越、越人、粤(えつ)とも呼ばれていました。

  文化面では、稲作、断髪、鯨面(入れ墨)などの特徴を持ち、百越と倭人の類似点が中国の歴史書にも見受けられます。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)が百越人の嗜好で、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられています。モチ、納豆、コンニャクなども彼らの文化です。


  言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う漢民族とは言語が異なり、言葉は通じませんでした。実は百越も国を持っていた時代がありました。春秋時代には、呉や越の国を構成していました。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれました。秦は中国最西部にあった国で、始皇帝は漢族というより西域の人でなかったかと推測する学者もいます。有名な兵馬俑の将兵は多数の民族で構成されていますが、漢族より西域の人の特徴がある将兵が多くいるようです。また始皇帝陵の陪葬墓から出土した人骨がペルシャ系のDNAと同じ特徴を持つ男性の骨と分かりました。呉や越は漢族というより西域の国に乗っ取られたのかもしれません。その秦も農民反乱で敗れ、漢族の国家「漢」が誕生しました。百越は圧迫されました。

  その百越が多くの戦乱を逃れて九州にやってきたとき持参したのが2種類の温帯ジャポニカ種の水稲なのです。遺伝分析では温帯ジャポニカは九州からさらに朝鮮半島に渡った、と推定されます。従来の学説では朝鮮半島から日本に伝わった、と考えられていましたが、起源は日本の方が早いことが定説になりつつあります。

  彼らは優れた航海者でもありました。弥生時代後期の岐阜県・荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれています。長江で育った民は、漁労のみならずすでに高度な造船と航海の技術を駆使していたのです。戦乱から逃れて日本まで渡来してくるのに大きな障害はなかったようです。


<お断り>27日は大きな行事が3つもあり、残念ながら「国際派日本人の基礎教養講座」は出稿できません。お詫び申し上げます。

2010年6月25日金曜日

金属器を日本に持ち込む

 ◆水稲は東シナ海を越えて

  6月19日号「漢民族、長江を侵略」の記事の中で、長江の下流にいた長江民の一部が北上、山東半島から北朝鮮に上陸、南下して九州に至ったーと書きました。九州到着は紀元前800年のころと思われます。これが弥生人第1号になるのですが、漢民族からは倭人と蔑称(べっしょう)されていました。長江を脱出したのは紀元前2200年以降と思われますので、九州に来るまでに約1400年近くかかっているわけです。この弥生人第1号は水稲を持参しなかった可能性が強いのです。なぜなら朝鮮北部での水田跡は近代以降のものであり、朝鮮半島で確認された最古の炭化米が紀元前2000年で、それは陸稲でした。陸稲は縄文中期には既に日本列島で栽培されていましたので、初期弥生人が持ち込んだものでもありません。

  倭人はもちろん長江下流域を脱出するとき水稲の籾(もみ)を持って出た、と思われます。しかしたどりついた朝鮮北部は冷涼な地で、当時の栽培技術や品種ではとても栽培できなかったのです。水稲をあきらめ畑作や狩猟採集の生活をしながら徐々に朝鮮半島を南下しました。その途中で原朝鮮人との混血もあったでしょう。青銅器文化は最初から持っていたと思われます。

  これについて彼らは弥生人といえないのでは、という考えもあります。弥生時代の始まりを表す最も大きな文化的要素は、中国大陸から伝来した水田稲作農耕と朝鮮半島からきた金属器です。その水稲文化がなければ弥生人とはいえないかもしれません。しかし九州に上陸した人々が金属器を持ち込んだ可能性は高いのです。鉄器と青銅器はまず九州北部に朝鮮半島よりもたらされ、鉄器は主に実用品として、青銅器は主に祭祀(さいし)の道具として使用されるようになっていきました。その後、近畿地方、さらに関東地方など東日本にも広がりましたが、弥生時代を通じて中国大陸・朝鮮半島に近い九州北部が、金属器を豊富に所有していました。特に鉄器は他の地方に比べ多く所有したことが知られています。

  最初の弥生人が九州北部に到着したのは繰り返しになりますが紀元前800年ごろです。従来の学説では弥生時代の始まりは紀元前300年ごろ、とする説が多かったのですが、年輪年代学などの進歩により、最近は弥生時代の始まりを500年ほどさかのぼって紀元前800年ごろとする説が強くなっています。

  では誰が水田稲作の技法を伝えたか。東シナ海を乗り越えた長江周辺の人々でした。中国では春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)に紀元前770年に突入、戦乱の世となり多くの国々が覇権を求めて相争ったのです。この結果、長江周辺、江南(長江の南側地区)の漁労稲作民が戦乱を避けて東シナ海を渡り九州に移住しました。もちろん水稲の籾を持ってです。百越と呼ばれた非漢系の人々でした。戦乱のたびに次々移住してきました。その数は時代が少しずれますが東京大学の人類学者埴原和郎氏によりますと紀元0年を中心にした前後約600年間に150万人の渡来者があったと推定されています。平均で年間2500人もの移住者があったわけで、およそ1万年続いてきた縄文時代は終わり、金属器を背景にした水田稲作農耕が開始されたのです。これにより食料生産経済の幕が開かられたのです。

  もちろん日本列島が一斉にそうなったのではありません。東から序々に西に広がった、と考えられます。時により縄文人と争い和合し、混血しながら。

2010年6月24日木曜日

水田を守った森林が崩壊

 ◆洪水が続発した長江

  漢民族の侵攻で長江人が4つのグループに四散されたことはこれまでに書きました。3つ目のグループ、現地捕囚組はどうなったでしょう。実はこれがよく分からないのです。史書に出てくるものは漢民族の話ばかりで、最下層に追いやられた長江人の記載はありません。中国人学者によると黄河文明と長江文明が合体して黄河長江文明になった、という説もありますがはっきりしません。いずれにしても水田はそのまま残り、その仕事は多分、隷属化された長江人が担ったのでしょう。水田の生産性のよさを漢民族が見逃すはずがないのです。

  また混血が進んだことも十分に考えられます。漢民族の習性として血統に少しでも漢民族の血が入れば漢族として認定しますし、服装など漢文化を押し付ける漢化は得意中の得意です。漢文化は世界最高の文化で、異民族を漢化することは最高の道徳として考えるからです。中華思想が当時から芽生えていた、と考えれば良いでしょう。

  ただ水田に隣接して広がっていた森林は崩壊しました。黄河文明の漢民族は放牧畑作民族、牧畜畑作民族でしたから森に家畜を放し、次第に丸坊主にしていったのです。また樹木も彼らの住居や都市づくりに伐採され、急速にその面積を失いました。特に春秋戦国時代に入ると鉄器が実用化されましたから、その燃料に森林が使われたのです。


  それでも詩歌などに残る文献では唐時代までは辛うじて残存していたようですが、明時代に入ると森林を読んだ詩歌がないことから全滅したものと思われます。私が南京から上海まで旅行したとき、車窓からは樹木らしいものはほとんど見えませんでした。南京の博物館そばの疎水に生えていた柳と鄧小平が植えたという南京の街路樹が印象に残ったぐらいです。

  森を失ったことは人々に不幸をもたらしました。森が持つ保水、洪水調整能力が失われたことです。また水田を維持する網の目のように張り巡らされた水路も漢族の管理能力では手に余るものでした。こうしたことから長江流域に水害が続発したことは言うまでもありません。歴史書に明記された通りです。

2010年6月23日水曜日

海岸、内陸2ルートで再会

 ◆大規模な遺伝子調査を!

  個人的なことになりますが、私はこれまで出張、観光などで十数カ国の外国を訪問しました。そのなかで一番気に入っているのが台湾です。もし私が外国に居住しなくてはならない事態に陥ったらどこを選ぶか、そのときは台湾です。雪の降る山陰に住む者にとってあの陽光に満ちた風土は魅力的なのはもちろんですが、それ以上に台湾の人々の親切で正直な明るい性格が気に入っているのです。ほがらかで陽気でくよくよせず、誰に対しても親切なのです。身内や親族に対しては極度に親身の世話をしますが、他人には冷たい、無視するという漢人や韓国の人々とは大違いです。見知らぬ外国人にも一銭の利益にもならないのに道案内をする、こんな台湾人の性格が大好きです。

  まるで私の周辺にいる仲の良い人々と同じなのです。考えてみれば台湾人の9割近い台湾原住民(自称漢族を含む)は長江人と越人の子孫なのです。越人の祖は百越で百越は苗族の血も受け継ぎます。苗族は当然長江人ですね。百越は長江の南側に住んでいました。つまり漢族に追われ海岸を南下したグループと内陸を南下したグループが台湾の地で再会し、新たな民族になったのが台湾人なのです。決して漢族・中国人ではないのです。弥生人もこの長江の民が祖先です。後日書きますが江南に住んでいた百越も海を渡って九州に来ました。つまり日本人と台湾人は同じ祖先から出ているのです。親しみを感じるのも当然と思います。

  台湾の人口統計学の専門家である沈建徳氏の話によると、同氏が聞き取り調査を行う過程で気がついたのは、多くの台湾人は自分が平埔族の子孫であることを知りながら、中国人優越思想の影響でそのことを恥じ、それを語ろうとしないことだったそうです。彼らが自信を持って「私は平埔族です」と言い出したとき、台湾問題は大きく動き出す、と思います。日本人として「漢民族優先の思想は間違っている」と何らかのメッセージを発信する必要性を感じています。林主任による「非原住民の台湾人」の遺伝子調査はたった200人です。原住民の調査は行われていません。外省人を含めて台湾に住む人たちの全体像を明らかにするには日本、台湾、中国も含めてもっと大掛かりな遺伝子、民族学調査が必要でしょう。中国は嫌うと思いますが。

2010年6月21日月曜日

台湾人は漢民族ではなかった

 ◆DNA調査がもたらす台湾独立の夢
 
  2007年11月18日付の台湾・自由時報は衝撃的なニュースを伝えました。同紙によると台湾の馬偕医院輸血医学研究室の林媽利主任が研究した台湾住民のDNA調査結果では「非原住民の台湾人」の85%は原住民の血統であるということが分かりました。つまり非原住民というのは本人の思い込みか自称で実際は台湾原住民だということです。台湾人に占める原住民は1・5%ですから、実際は86・5%の台湾人は原住民ということになります。

  日本の敗戦後、ポツダム宣言を無視して勝手に台湾を占拠した蒋介石軍が連れてきた外省人は7.5%ですから戦前から台湾に住んでいた中国人はわずか6%ということになります。これでは中国政府のいう「台湾人も同じ中国人だから中国統一は当然だ。武力を持ってでも統一する」という主張が成り立たないことになります。台湾政府も台湾独立を主張しなくてはならない立場に追い込まれます。研究成果は両国政府から完全に無視されました。

  林主任によると、「非原住民の台湾人」の遺伝子構造は複雑で、彼らの85%は原住民の血統を持つが、さらに90%以上は中国東南沿海の越人のDNAを一部受け継いでいるそうです。越人は北方の漢人とは違う非漢人で、百越の子孫ともいわれます。越人は渡航禁止のなかった17世紀以前に台湾へ渡って住み着いたということが、すでに数々の研究で判明しています。百越は弥生人と同じ入れ墨の風習を持ち、稲作、なれずし(熟鮓)など倭人との類似点が中国の歴史書に見受けられます。弥生中後期に戦火を逃れて長江下流域から日本に脱出した民族とも考えられます。


  台湾政府も中国政府も、台湾の住民は、原住民である高砂族や、戦後、蒋介石とともに中国から移ってきたいわゆる外省人を除いては、みな清国統治時代(17世紀後半~19世紀末)に渡ってきた漢人移民の子孫だと主張しています。しかし歴史を正確に把握するとその主張は成り立たないのです。

  17世紀後半以降の清国時代、漢人の台湾への移民は基本的に禁じられており、わずかの渡航者もほとんどが密航でした。しかも密航者が手に入れた小さな船では台湾海峡を越えることは難しく、多くは遭難死しています。たとえ台湾にたどり着いても、瘴気の島といわれたその地で多くは風土病で死にました。密航は男だけに限られており、原住民との通婚も禁じられていたため、子孫を残す者は少なかったようです。台湾人が漢民族の血統であるとはありえないのです。

  一方、現在の台湾の原住民は中央山脈や東海岸に居住していますが、もちろんかつては西側の平地にもたくさん居住していました。その人たちのことを平埔族と呼びます。ところが今日、その末裔はほとんど見当たりません。平埔族はどこに消えたのでしょう?

  清国時代の記録によりますと平埔族は当時、漢化(漢民族への同化)をさせられたのです。これは中華世界の伝統的な異民族統治の手法です。清国は原住民支配をするするため、最初は過重な税金、労役を課します。そのあと税金、労役軽減を条件に、漢語を使わせ、風習も漢化させます。漢化した者には漢人名と漢人の家系図(もちろん捏造品)を「下賜」し、漢民族意識を植え付けたのです。

 ◆歴史を捏造

  戦後、蒋介石の国民党は学校教育で、18世紀の乾隆帝時代、数十万人規模の漢人移民が台湾へ押し寄せたと教えましたが、それは台湾人を中国化させようとする歴史捏造だったのです。記録を正しく読めば、数十万人規模の原住民が当時漢化させられたことが分かります。渡航、移民を禁じておきながら数十万人もの移住があるわけがありません。

  ところで当時は清朝時代です。清朝政権は満州人が築いた国家で、本来なら満州語を普及させるのが筋です。しかし清朝自身が次第に漢化、台湾のように遠隔地で仕方なく役人を置いている地には漢人を、それも台湾の場合は対岸の福建省の人間を下級役人として派遣しました。下級役人は満州語はもちろん、正統漢語(普通話・北京官話)も知りません。自らしゃべっていた福建語(ホーロー語)、あるいは客家(はっか)語を平埔族に教えました。そして偽の家系図を渡したのです。その結果、何代か後の平埔族は自分を中国南部出身の漢族と思い込まされたのです。失礼な言い方ですか貧乏で地位の低い平埔族が身分不相応な立派な家系図を持っているのが面白いですね。

  台湾住民の86・5%が非漢民族となるとことは重大です。冒頭にも申しましたが、これでは「台湾は中国の一部」という主張はまったく成り立ちません。極東の緊張は中国による台湾侵攻計画によるものが大です。両国政府に「台湾は台湾人のもの」という認識を一刻も早く持ってもらいたいものです。

南島語の母系は長江人?

  侵攻してきた漢民族に追われ、長江最下流の長江の民たちが船に乗って台湾に逃げ、台湾の原住民「高砂族」になったことは「漢民族、長江を侵略」の稿で書きました。しかし台湾には紀元前3500年くらい前から人が住み着いた形跡が各地の遺跡で見つかっています。長江の民が台湾にたどり着いたのはいくら早くても紀元前2200年ですからそれ以前に先住民がいたのは確かです。しかしその前に先住民がフィリピン方面など南方に移住した形跡もあり、実体はよく分かっていません。

  もし先住民が残っていれば混血が行われ原台湾人を形作っていたことでしょう。ちょうど弥生人と縄文人が混血して日本人となり、苗族と先住民族が混血して百越(ひゃくえつ)が誕生したようにです。
その台湾原住民「高砂族」は近年まで入れ墨の習慣を持っていました。顔面や体に入れ墨を彫るのです。日本の弥生時代を描いた魏志倭人伝にも倭人は入れ墨の習慣があったと記されていました。長江の南側、江南(こうなん)地方にも古代は入れ墨の風習があったそうです。同じ系統の民族であることを示していますね。
また明治から昭和にかけて東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵氏は、実地調査から台湾の先住民族・生番族(後の高砂族)と雲南省
の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表しています。当時はDAN鑑定などの手法はなかった時代ですが「観察」という手法でその本質を見抜いたのです。音楽も台湾原住民と雲南や貴州などの民族と共通するものがあり、根の部分の関連性が指摘されています。

  民族学者の岡正雄氏や考古学者の江上波夫氏は、長江流域に勢力を持っていた越や呉(3世紀ごろ)の言語がオーストロネシア語(南島語)であったと推測しています。実は台湾原住民が使っている言葉はオーストロネシア語なのです。言語学者のブラストや先史学者であるベルウッドは、「台湾あたりにオーストロネシア語族の最も古い祖語があり、それが南方に広がってフィリピンあたりでオセアニア系とインドネシア系に二分された」と主張しています。

つまり言語学的にみると台湾から南方系人類が広がった、とも考えられるのです。そのオーストロネシア語はまた日本語との関連が強いのです。日本語の母音の強い音韻体系はオーストロネシア語族との類似性が高く、一部の単語のオーストロネシア起源も指摘されています。

つまり整理して考えますとオーストロネシア語の母型は長江人にあり、それが分かれて日本、台湾、江南の言葉に影響した、と考えられるのです。いまのところ苗族の使用言語がオーストロネシア語の範ちゅうに入るのかどうかが分かっていません。早く調査の手が入るのが望まれますね。苗族も共産中国の指令で急速に漢族同化の措置が取られているそうですから。明日はこの台湾原住民が中国・台湾関係に決定的衝撃力を持っている、といお話を書きます。この件が中国、台湾に素直に受け入れられたらアジア情勢は根本的転換を遂げます。ご期待ください。

2010年6月20日日曜日

苗族を圧迫

 ◆共産中国も中華思想

 漢民族のさらなる南下によって長江の民、苗族は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていきました。漢民族の圧迫により苗族は今では中国の少数民族となってしまいました。その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だそうです。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じとの報告もあります。水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも日本と同じです。稲作への執着心が強いのも日本人と同じですね。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていました。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆の食器を作り、衣服の原料は絹です。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの鵜を使った漁が行われているそうです。

   以前にも書きました鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものです。そこから出土した大壷には96m級神殿を描いたと思われる絵が描かれていることは出雲大社の項で書きました。その壷には羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が漕いでいる船の絵も描かれています。それとそっくりの船の絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土しているそうです。たぶん苗族のご先祖が製作したのでしょう。日本人とのつながりを感じさせますね。
 
 ◆日本と同じ生活習慣

  その苗族を漢民族はなぜかいつも圧迫し続けました。「川に落ちた犬には石を投げろ」というあの敗者に対する徹底した迫害姿勢がその原因でしょう。苗族は最初、広東省、福建省など中国南部に逃げた、と思われます。あそこなら南船北馬のことわざ通り河川がたくさんあり、稲作には最適な所でした。でも漢民族は苗族が定着することを許さなかったのです。苗族に対して寛容な王朝はほとんどありませんでした。結局、雲南省の山岳地帯、という苗族にとってもっとも不得手なところに押しやられたのです。

 共産中国になってもその姿勢は変わりませんでした。苗族に与えられた戸籍は他の少数民族と同じ農村戸籍です。この戸籍では都会地には住めません。したがって収入は最下層に属します。学校、病院、道路などインフラもほとんど与えられません。収入がないので多くの貧しい苗族は医者に行くこともなく、家で死んでしまうのが現実です。手許に資料がないので具体的数字は申し上げられませんが、大学進学率は各民族間では最下位に属します。それだけ冷遇されているのです。

  漢民族には古くから周辺民族に対する根強い優越感があり、“優れた”文化を持っている自分たちが他民族を征服し、同化するのが異民族に対する基本姿勢とされてきました。いわゆる「中華思想」です。特に漢民族中心の秩序から離脱しようとする民族やグループがあれば、中華の文化的優越感を否定するとみなし、本格的に征服にかかります。共産中国が成立した後、チベットやウイグルに侵攻し植民地支配したのも中華思想が基本理念になっているからです。そんな中で苗族に漢民族並み権利を与える発想は出てこないでしょう。それに対し日本の左翼陣営は見てみ見ぬふりをしているのはいかがなものでしょうか。

  長江人という共通した祖先を持つ日本人としてやりきれぬ話です。

2010年6月19日土曜日

漢民族、長江を侵略

 ◆青銅の武器を持ち騎馬で南下

  地球寒冷化は黄河流域では気温の低下とともに乾燥化を伴い、畑作物の収穫を激減させ、家畜や馬の餌となる青草が枯れました。黄河文明の放牧畑作民族は同時に騎馬民族の性格も持っていましたから、民族挙げて馬に乗り、青銅の武器を持って南下しました。騎馬民族にとって、長江文明の民は敵ではなかったのです。長江人は精巧な玉器を作る高度な技術は持っていましたが、青銅器の武器は持っていませんでした。平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようです。また比較的平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われます。長江文明が持っていた環濠、城壁は身内の争いに備える程度のものでしたから、異民族の侵略に耐えられるだけの強固なものではありません。長江人は簡単に敗れました。

  司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事があります。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民、漢族は黄河文明の担い手であると見てよいでしょう。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話があります。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王です。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って敗れ、首をはねられたといいます。

◆一部は日本へ

  戦いに敗れた長江の民を待っていたのは4つの運命でした。上流域の民は中国大陸を南下、雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となりました。同時にその一部は混血しながら百越(ひゃくえつ)になったとみられます。最下流域に住む一族は漁労民でもありましたからその一部は海岸沿いに逃げ、台湾に生活の場を求めます。戦前、生番族、高砂族と呼ばれた台湾先住民族のことです。下流域にいた一部は漢族のいなかった黄河下流方面に北上、山東半島を経て黄海をわたり、北朝鮮に上陸します。さらに南下を続け紀元前800年ごろに九州に到着しました。中国人からは倭と呼ばれました。最初の弥生人になった人々です。漢民族の捕囚下となった人々は圧政下、引き続き稲作漁労を最下民として担当します。漢族との混血は続き今日の上海人の基本的特徴に至っているかもしれません。

2010年6月18日金曜日

黄河文明が誕生

 ◆牧畜畑作を営む

 長江文明のすばらしさを書きましたが、その長江文明に遅れること約1300年後の紀元前5000年ごろに黄河中流域に自然収奪型の牧畜畑作文明が誕生しました。いわゆる黄河文明で、担ったのは漢族の直接の祖先筋に当たる民族です。初期は栗の栽培,家畜の飼育をしていたようです。馬を飼い栽培品種は次第に広がっていきました。

 黄河文明が発展していく中で都市が誕生してきます。中国古代の都市を邑(ゆう)と言います。邑という字は口と巴からできていますね。口は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁を表します。巴は人が座っている姿を字にしたものです。つまり人が集まって城壁の中で暮らしている。これが邑というわけです。城壁の中でないと暮らせない理由がありました。邑と邑が互いに争ったのです。こういう邑が黄河中流域にたくさんできてきます。

 ◆青銅器で武装

 彼らは青銅器を持っていました。農耕でも使われましたが、それ以上に人を殺す武器として発展します。青銅器を使い近隣の邑を侵略して支配を広げていきます。牧畜畑作で階級分化した社会では、支配者階級が青銅器による武力をもって下層階級を支配しました。

収奪と侵略の中で、武器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのです。生産性の増大は人民を兵力として動員する事も簡単でした。自然をどんどん切り開いていく「力と闘争の文明」の民でしたが、その活動場面は黄河中流域に限られていました。下流域に進出したかったのですが、黄海近くの黄河は大雨が降るたびに流路を変え、とても危険で住み着けなかったのです。しかし移動せざるを得なくなる事態が生じました。

4200年前に起こった地球の寒冷化です。

2010年6月16日水曜日

自然循環型の水田

 ◆自然共生型の牧畜畑作も

  前日の記事で自然収奪型の牧畜畑作文明の恐ろしさを書きましたが、牧畜畑作農業のすべてが悪いわけではありません。自然循環型、自然共生型ともいえるすばらしい牧畜畑作農業もあります。現代に例をとってみますと北欧諸国、スイスを中心としたアルプスのすそ野地帯です。

  これらの国々では放牧を例にとりますと牧場は一定の面積ごとに区画が設けられ、家畜は一つの区画で草をある程度食べると隣の区画に移されます。前の区画では再生可能量を上回る草が残され、家畜の排泄物を肥料に再び育ちます。こうした区画を順繰りに家畜は周り、草と家畜といい関係ができるのです。収益優先の過剰放牧はしません。各区画では草が一定以上、常にありますから、雨が降っても土壌は流出しません。牧場には必ず木が植えられていますから家畜の日よけにもなり、土壌保全の役割も果たします。

  畑作地は石やコンクリートで土留めが設けられ、傾斜地でも土壌が流出しません。畑地では収穫直後には次の作物が植えられ、土壌は作物の被覆を受けます。例えば小麦では春作と秋作が連続して行われます。また春作の小麦の後にジャガイモを植えるなど土壌には何らかの作物が植わっているのです。また春作の後には牧草を生やす、などの手法も講じられています。この結果、土壌には常に何らかの植物が覆っている状態が続き、雨による表土流出がありません。これらの国々が現在では自然保護運動の最先端を走っていることを明記しておきます。

  森林も守られています。伐採は特別な例を除いて許可されません。土壌保全と景観保護の目的があるからです。フィンランドでは木々に番号がふられ、自宅の木を切るにも地方公共団体の許可が必要です。森林がある限り雨が降っても表土の流出はありません。

 ◆森と共存した水田

  さて長江文明の水田は「自然循環型」との記事を書きました。なぜ、水田が自然循環型なのでしょう。水田は水を張りますから傾斜面にはできません。傾斜地では一枚一枚の水田を平らにつくり段々畑状に上に積み上げていきます。「棚田」と申します。広大な中国ですから日本でいうような棚田はなかったでしょうが、海岸から奥地に向け等高線状に水田が作られていたことは間違いありません。水田は米の生産だけでなく、自然や人間にとって多くの役割を果たしてくれました。山に降った雨を一時的にストックして、それを地下にしみ込ませてゆっくり放流し、下流域で再使用できる「水資源涵養機能」や「洪水調整機能」を持っています。ダムの役割もはたしているのです。古代では多くの生き物が水田に住み着いていました。その典型が魚です。魚は時として長江人の蛋白源となり、長江人や家畜の排泄物が水田の肥料となりました。上流からは常に栄養分を含んだ水が流れてきました。

  さらに長江人は森の大切さを知っていました。森は水田に必要な水資源の涵養をするのです。森を切ってしまえば水の供給が止まります。したがって森を荒らす放牧はおこなわれませんでした。文字通り自然循環型なのです。長江人の穏やかであったであろう人柄がしのばれます。
 

人類による砂漠化現象

 ◆過度な森林伐採

 人類による砂漠化現象は四大文明の地だけでなく、アジア、北アメリカ、地中海一帯にみられます。イタリアを旅行したことがありますが、岩山だらけの国で、緑はまばらです。かつては森の国だったイタリア半島は共和制ローマから帝政時代、放牧と畑作、そして過度な森林伐採で、丸裸になってしまいました。岩山が露出したのです。森林伐採は主に軍船造りに当てられ、その軍船で地中海を席巻したのです。クレオパトラとアントニュウスの物語は軍船抜きに語れません。森林は都市建設や鉄造りの燃料にも用いられ、ローマが地中海や南部ヨーロッパを支配できたのも木を切ることで成り立っていた、と考えられます。帝政末期、雨が降ると森林や保水力のある耕地がないため、鉄砲水となって下流を襲い、多くの集落が失われました。特に海辺の町の被害が大かったようです。これが毎年続くと人々は移住、経済力は低下し国民のエネルギーがなくなったのです。イタリア半島が緑を失ったとき、帝政ローマは活力を失い北方からきたゲルマン人の侵入を防ぐことはできませんでした。

 ただイタリアでは本格的な砂漠化は起こりませんでした。東西と南を海に恵まれ、北はアルプスの雪解けがあり、ほどよい湿度があったこととオリーブ、かんきつ類など荒地に強い作物が栽培され始め、土壌を守ったことが挙げられます。それに比べ中近東はもともと乾燥化しやすい土地柄だったことが、砂漠化を進行させたのでしょう。

 20世紀後半、北アフリカ・サハラの砂漠地帯の洞窟に古代人が描いたと思われる壁画が相次いで見つかりました。その壁画は牛、ライオン、象、キリン、ラクダなどで、それらを狩っている人々の姿もありました。北アフリカは緑の森林と豊かな草原に覆われていたのです。この絵の重要性が評価され、世界遺産に次々登録されました。紀元前12000年ごろから西暦100年ごろに描かれた壁画は、かつてこの砂漠が緑の大地であったことを教えてくれます。音楽や舞踊といった日常の様々な生活風景も描かれており、人々が精神的豊かさの中で暮らしていたことを物語っています。壁画はアルジェリア、リビア、ニジェール、テャドなど広範囲に存在します。

 ただこれらの地方で大規模な牧畜や畑作が行われていたかどうかは不明で、砂漠化の原因が人的要素より気候変動による度合いが高い可能性があります。今後の環境考古学の調査が待たれましょう。

 前掲を除くここまでの主な参考資料
サイト 民族伝承ひろいあげ辞典
サイト 奈良国立文化財研究所
サイト 年輪年代測定
サイト 弥生ミュージアム
『DNAが語る稲作文化-起源と展開』佐藤洋一郎  日本放送出版協会
『稲のきた道』佐藤洋一郎 裳華房
『稲とはどんな植物か-コメ再考』佐藤洋一郎 三一書房
『古代日本のルーツ 長江文明の謎』安田喜憲 青春出版社
サイト 稲吉角田遺跡
サイト 稲吉角田遺跡出土弥生絵画の新解釈
サイト 妻木晩田遺跡
『原始絵画』共著 講談社

2010年6月15日火曜日

力と闘争の文明

 ◆畑作牧畜で砂漠化  

  紀元前2~3000年ごろに興った世界四大文明、時として華麗な文化として紹介されます。しかし実体はどうだったのでしょう。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民でした。そして自ら滅び、この地球から緑と水を奪い取って砂漠化してしまったのです。四大文明のうち辛うじて黄河文明だけが長江文明を吸収することで現在まで文明の流れを絶やさずにすみました。残り三大文明は現代とは文化、人種の断絶があり、残ったのは砂漠と荒野なのです。砂漠の多くは自然が造ったものでなく、牧畜畑作民族が造ったといえます。このあたりのことはなぜか学校教育では伏せられています。

  四大文明の基本的な展開をみてみましょう。石器時代の終わりごろ、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダス、黄河の巨大河川流域で放牧と畑作が始まりました。当時はどの地域とも豊かな森林に覆われ、うっそうとした森は渓流や泉を生み、多くの動植物を育ててきました。今は砂漠になっているアフリカ北部や砂漠が広がる北アメリカも同じで、地球は緑の星だったのです。ところが放牧が始まると家畜たちはまず下草を食べ、木々の芽を食べ、さらに苗木の葉を食べ、低木も食い散らしました。特に山羊は急傾斜地でも駆け上って樹木を食べたのです。この結果、表土がむき出しになり、そこに雨が降ると表土を押し流して岩山が露出、荒地にしてしまいました。長年の間に緑の覆いのない岩石、荒地は風化作用で砂漠となります。

 また畑作でも同じことが起きました。森林を切り開いて畑としたのはいいのですが、畑は水田と違って傾斜地でも農耕できます。傾斜地に雨が降ると表土を押し流し、平坦な部分の肥沃な土をも川に押し流していきます。これが何百年、何千年も続くと露出した岩石は風化作用で砂漠になっていきました。

 ◆過度に森林を伐採

 過度の伐採も森林を失う原因になりました。レバノン国旗にも描かれているレバノン杉に例をとりますと、古代においてはレバノン杉が中近東一帯を広く覆っていましたが、古代エジプトやメソポタミヤのころから建材や船材に利用され、フェニキア人はこの木を伐ってガレー船を建造して地中海に進出、さらに木材・樹脂として地中海各国に輸出しました。また中近東で興亡した各民族はともにレバノン杉を軍艦や都市づくりに利用し、豊かな森は消滅。現在ではカディーシャ渓谷にわずかに残存するだけとなっています。消滅したあとは砂漠や荒野が広がっています。「力と闘争の文明」の民は自然を収奪するのみで、日本人のように植林することをしなかったのです。

2010年6月14日月曜日

初歩的な階級社会の出現

 ◆稲作共同体は比較的平等

 「再生と循環の文明」であったにも関わらず長江文明の都市になぜ城壁があったのでしょう。水田は優れた農業生産性を持ちます。100人の集落があったたして狩猟採集の時代には赤ちゃんを除く全員が狩猟採集に出向かねば集落の機能は維持できませんでした。ところが水田ではたとえば80人が働けば集落は維持されます。そうすると残り20人は商工業など他の仕事に従事できます。同時に稲作に必要な水路は中国・江南地方では網の目状に数百キロ、時として数千キロに及びますから、多数の集落が関係してきます。その全体を統括したり、水路を管理する人、また豊作を祈る祭祀を司る階級も必要となってきました。全体の集落を支配する人も必要なわけです。当然、支配者は水争いが起きれば武力を使ってでもまとめなければなりません。いわば初歩的な階級社会が出来上がるのです。そうした人たちや商工民たちは都市に住んだのです。同時に人間の性としてより収量の高い水田を欲しくなります。また新田開発の地をめぐって周辺地域と摩擦も生じたのでしょう。こうしたことから他の集落、都市と抗争が始まり、環濠や城壁が必要となったのです。

しかし水田は複雑で手間がかかります。苗代をつくって苗を育て、水田に植え替えが必要です。水田の水を管理し、田の草も取らなければなりません。稲刈り、脱穀と高度な技術と熟練を要するので、奴隷は存在しません。共同体の中での助け合いを必要とします。身分の分化は牧畜畑作社会ほどには進まなかったと思われます。

◆奴隷制の四大文明

 長江文明がそのような穏やかな稲作文明を持っていたのに対し、エジプトなど他の四大文明は牧畜畑作をしていました。牧畜は家畜の性質さえ分かれば下層牧民で対応できます。羊飼いはどの国でも無学な最下層の人たちです。小麦や大麦は、極端に言えば、畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていきます。そのような単純労働は奴隷にさせます、支配者は都市に住んで、牧民や奴隷の管理をするという階級分化がうまれました。都市は交易と消費の中心となります。当然さらなる富が欲しくなり他の都市、地域と抗争します。当然、武力が生まれ専門の将兵を蓄えることになります。支配者の中から王権が出現し、より階層化が進みました。

奴隷は奪い取った土地の民を当てれば十分でした。ユダヤの民がエジプトの奴隷となり、モーセが出エジプトでこれらの奴隷をカナンの地に脱出させる話は有名ですね。穏やかだった長江文明と奴隷制の上に成り立っていた4大文明。どちらが人間的だったか読者の評価におまかせします。

2010年6月13日日曜日

水稲栽培は長江中・下流域でスタート

 ◆再生と循環の文明

弥生時代(一般的には紀元前300年~紀元300年。もっとさかのぼるとの説もある)は中国からの渡来人によって日本列島が席巻された時代だったのです。その渡来人は水稲と鉄器文化をもたらしたのですが、彼らは中国のどのあたりに住み、どのように水田を営んでいたのでしょう。

 水稲は中国の長江(揚子江)中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったとみられています。7000~5000年前になると、長江デルタの中国浙江省の河姆渡遺跡から水田稲作の跡が発見されています。

水田を栽培していた民族は6300年前、長江流域に初期文明を誕生させました。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期か、さらに古く、黄河文明よりも1000年以上も早いことになります。魚を捕る稲作漁撈民でもあり、自然と共生する「再生と循環の文明」であったのです。長江文明といいます。

その代表が湖南省の城頭山遺跡です。直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていました。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明しています。また 約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかりました。

さらに出土した花粉の分析など環境考古学的調査で、都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森が周辺にあったことが分かりました。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていたのです。

深い森と豊かな川と青々とした水田。長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらの懐かしい風景とそっくりではありませんか。弥生につながってくるのは当然です。

2010年6月12日土曜日

弥生時代、中国は戦国の世

 ◆秦が中国を統一

弥生時代の600年間は中国が大きく変革した時代でもあります。弥生時代のはじめのころに当たる中国の「春秋戦国」時代には鉄器が本格的に普及し、耕地の開拓が進み人口も爆発的に増加しました。そうした富を争う背景が諸国が相争う戦国の時代を招いたとも言えます。こうした中国の動きは弥生時代の日本列島にも大きな影響を与えたました。

 弥生時代が始まった紀元前3世紀ごろ、中国大陸は韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦などが覇権を狙い相互に戦っていました。このなかで紀元前230年になって西域色の濃い秦が頭角を現して韓を滅ぼし、続いて各国を滅ぼし、最後に紀元前221年に斉を滅ぼして中国史上初の統一王朝が誕生しました。そして、史上初の「皇帝」に即位した秦の始皇帝は、中央集権・法治主義の国づくりを強力に推し進めましたが、始皇帝の死後、秦帝国は各地の抵抗・反乱にあい滅亡します。この秦の発音が後のチャイナ、支那の語源になります。支那は差別用語では決してないのです。中国の国名を代表する言葉と言っていいでしょう。秦の滅亡後、劉邦によって建てられた前漢が中国をまとめました。前漢は弥生時代の中ごろに当たります。

 前漢は紀元8年に王莽に皇位を奪われ「新」が建国されますが、紀元23年には後漢によって倒され、紀元220年まで後漢が中国を支配しました。後漢の滅亡後は、魏・呉・蜀が並びたつ三国時代となります。倭の女王卑弥呼が魏へ使者を送ったのもこのころです。卑弥呼は弥生時代だったのですね。三国が争う中で新たに建てられた西晋が280年に再び中国を統一しました。日本列島でもこのころ、弥生時代から古墳時代へと時代が移行していきます。

 この相次ぐ戦火を逃れた人たちが、安住の地を求めて九州にやって来たことが、弥生人のスタートと考えられます。ちなみに、揚子江河口の浙江省あたりの漁猟民は江戸、明治のころ嵐や潮の流れで九州にたびたび流されて来たといいます。極端に困難な旅というわけではなかったのでしょう。

2010年6月11日金曜日

どうやって継ぎ足す?

 ◆互い違いにする

 読者の浩太郎さんから次のようなメッセージをいただきました。

   どうやって継ぎ足すのですか。
      浩太郎

 出雲大社は古代、高さ96メートル、30数階建てのビルに相当する高さがあったかもしれない、という記事で、神殿の足は木材を継ぎ足した可能性がある、と私が書きましたら、継ぎ足す方法を質問してこられました。1248年に造営された当時の出雲大社神殿は巨大な3本の杉柱を束ねた柱根で出来ていることが発見され、束ねた柱根の見かけ上の直径は3mにもなります。この柱を使った神殿の高さは専門家の計算では48mが限界です。それでは96メートルもの高さにはなりません。屋根の部分を除いても90mは必要です。それで私が継ぎ足した可能性がある、と書いたわけです。継ぎ足した方法ですが手元の資料にはそれを解説したものがありませんでした。そこで思考実験で追究します。

 継ぎ足した柱をA,B,Cとします。下の柱を下A,下B,下Cとし、上の柱を上A,上B,上Cとします。下Aを仮に50mの柱とすると上Aは40mになります。下Bは40m、上Bは50m、下Cは45m、上Cも45mとします。上下はホゾとミゾを組み合わせ固定します。これを束ねれば互いの柱がもたれあいとなり、一本の巨大な柱として機能します。束ねる方法は思考実験を繰り返しましたがよく分かりません。上は床がありますから束ねる機能があります。しかし真ん中と下部をどうするのか金具のなかった当時よく分かりません。足元は土中に埋めますから束ねなくても良いかもしれません。しかしいずれにしても1248年に造営された当時、束ねる技術があったのですから、古代も束ねる方法を持っていたことは確かです。

 あるいは既に解明されていることで、私が知らないだけのことかも知れません。どなたかご存知であればご教示ください。

2010年6月10日木曜日

弥生人、150万人が九州へ

 ◆何派にも分かれ

 私が感じる弥生の2大エポック、集落同士(クニ同士?)の戦争と巨大建造物の存在(推定)を書きましたが、いつ弥生人が日本列島にどれくらいやってきたのか、このことが分からぬと話は進みません。

 最初に弥生人が九州に姿を現したのは縄文末期の紀元前3世紀のころでした。その当時の縄文人は寒冷化の影響を受け人口が減少、最盛期の人口の約28%、約7万5000人程度と推定されています。そこへ中国大陸から押し寄せてきたのが弥生人です。東京大学の人類学者埴原和郎氏によりますと弥生時代約600年間に150万人の渡来者があったと推定されています。これは人口増加率を0.2パーセントで計算した場合で、人口増加率を0.4パーセントと最大限の高率に見積ったとしても、9万4000人もの人々が押し寄せてきまいた。

 7万5000人対150万人では勝負になりません。日本人の表層が弥生系で占められるのは当然です。もちろん1度に来たわけでなく、600年間の間に何派にも別れ大集団から少数集団まで数限りなく来たのでしょう。弥生文化の成立時には、在来の縄紋人を上回る大量の人々が渡来したのです。彼らはシベリアから来た縄文人より体が大きく、一気に列島を北上し、弥生末期には濃尾平野あたりで拮抗したとみられています。九州を南下した弥生人は鹿児島付近でとどまり沖縄方面には行っていません。沖縄は南方系縄文人の血筋が色濃く残りました。北海道も北方系縄文人の遺伝子を受け継ぐアイヌが先住民族として残りました。

 弥生系の人々と先住民である縄文系の人々とは、敵対したり共存したりしながら次第に融合、混血し、今の日本人になっていったのです。弥生時代は約600年間続き、4世紀には古墳時代へと進みます。縄文の1万年と比べ弥生の600年は比較にならないほど短いですね。歴史時代の1700年を加えても2300年。縄文の共生時代のすごさを改めて感じます。

2010年6月9日水曜日

古代の出雲大社は96m?

 ◆描いた大壷を発見

 読者の皆様はこんなニュースを聞かれたり読まれたことはあるでしょうか?

 「出雲大社は古代96m(32丈)の高さがあったという社伝がある」。NHK、読売新聞、山陰中央新報など報道各社が約10年ほど前、流しました。しかし古代において約100mもの建造物が建築できたのでしょうか? 第一、そんな高さができる材木が手に入るわけはありません。関係者は「古代人の妄想だろう」で片付けてしまいました。

 ところが発掘作業で1248年に造営された当時の出雲大社神殿が巨大な3本の杉柱を束ねた柱根で出来ていることが発見され、見直し作業が始まりました。束ねた柱根の見かけ上の直径は3mにもなります。これは巨大なものです。

これをもとに建設会社大林組の福山敏男氏らが設計した結果、この工法で48m(18丈)までなら建築可能との判断がでました。この復元模型や復元図面では、神殿は高床式建物で屋根と柱の比率は1:2以下です。高さ96mの神殿の場合、その比率は1:5になるだろうと学者、建築家は考えていました。

ところがです。妻木晩田遺跡の西側に弥生中期の稲吉角田(いなよしすみた)遺跡があります。角田遺跡から6種類の絵画が描かれた大型の壷が出土しています。その中に階段か梯子を掛けたやぐらのような高い建物が描かれたものがあります。この建物は高床倉庫とされてきましたが、建物の屋根と柱の比率は1:5であり、単なる高床倉庫とは言えない異常な高さです。さて「48m説(18丈説)」に立った出雲大社復元模型に稲吉角田遺跡の1:5を当てはめると、なんと高さは96m(32丈)となります。

そうするとあながち出雲大社が96mあった、という説を否定できなくなります。学者や専門家の間にこの壷の高床式建物は出雲大社を描いたという説が出るのも当然です。

問題は90mもの材木があったか、ということです。樹高をみると、世界最高はカリフォルニアの「コースト・レッドウッド」で111.4m、日本では、高知県長岡郡大豊町の杉が68m、山形県寒河江市の光明寺のケヤキが60m、静岡県榛原郡金谷町の楠が50mで最高です。材木の条件からは「48m説(18丈説)」は十分に成り立ちますが、「96m説(32丈説)」となるといくら森林資源の豊かな弥生時代でも無理かもしれません。しかし、日本書紀の仁徳記と播磨国風土記には、「その樹の影、朝日にあたれば、淡路島に及び、夕日にあたれば、高安山を超えき」という高樹(楠)があり、この樹を切って枯野という舟を作ったと記されています。オーバーな表現を抜きにして考えても古代には「96m(32丈)」の建築材が手に入った可能性はあります。

また継ぎ足しで90m級の柱を作った可能性も捨て切れません。古代人は材木の性質については三内円山遺跡の例でも見られるとおり現代人よりはるかに詳しかったはずです。3本の杉柱を束ねた柱根を作ったように強度を下げることなく継ぎ足した超巨大な柱を作ったかもしれません。前回は戦争をした弥生人は嫌い、と書きましたが、こんな超文明を持っていたとなるとすごい民族ですね。研究が進むことを期待しています。

2010年6月8日火曜日

高地性環濠集落

 ◆緊張関係にあった妻木晩田遺跡

 私はなぜか子供のころから古代に興味を持っていました。直接のきっかけは中学生のころ鳥取市の湖山砂丘に石の鏃(やじり)を探しに行ったことです。人づてに湖山砂丘には鏃が落ちている、と聞き、これは面白そうだ、と買ってもらったばかりの中古自転車に乗って当時の自宅からは約8キロ離れた湖山砂丘に入り込んだのです。当時の砂丘は砂防林に覆われ、中に入り込むと迷ってしまい、半べそ状態でした。それでも2,3個の鏃に似た石を拾い、意気揚々と帰りました。大人になって考えるとそれは黒曜石のあの光る黒い色彩がなく、単なる石ころだったと思われます。その石も引越しを繰り返す中で失ってしまい、今は懐かしい思い出になってしまいました。

 さて弥生時代です。弥生時代を代表する鳥取県米子市淀江町の妻木晩田(むきばんだ)遺跡は自宅から車で2時間ほどのところにあります。これまで3度ほどおじゃまし、そのたびに思うことがありました。それはなぜこんな高いところに家を建てたか、ということです。妻木晩田遺跡は晩田山の尾根筋に広がり、標高90-150mの高さがあります。日本海をはじめ弓浜半島、島根半島が一望でき、すばらしい眺めです。ということは生活の基盤だった水田は遠くにあるということです。実際に歩いたわけではないけれど、住居と水田とは急坂を20―30分歩かねばなりません。なぜこんな不自由なことをするのか、それはすぐ分かりました。環濠の存在です。環濠は集落をぐるりと取り囲んだ堀です。敵の侵入をこの堀で防ごう、というわけです。敵に攻め込まれにくい高いところに集落を築き、さらに濠で守る、大変な努力です。高地にある集落を高地性集落、環濠のある集落を環濠集落と呼びますが、妻木晩田遺跡はその両方がある集落だったわけです。どんな敵が周辺にいたのかは分かっていません。

 それにしてもこんな緊張関係にあった弥生時代には住みたくありませんね。

2010年6月7日月曜日

誤差のない年輪年代法

 ◆誤差の多い放射性炭素年代測定

 前回、豪州人のカンガルー食いに飛び火してしまいましたが、これまで縄文人のルーツと縄文文化を書いてきました。いかがだったでしょう。これからは現代日本人の表層となる弥生人のルーツとその暮らしを探ります。これまで書いてきたことは専門家からみれば私見と判断されます。それもそのはずです。日本人の起源を探究する学問には、自然人類学、文化人類学、考古学、言語学、民俗学、民族学、文献史学、神話学、血液学、遺伝学などがあります。それぞれ別な見解を持っており、同じ学問でも研究者によって意見が異なります。たとえば私は沖縄人はスンダランド由来と書いていますが、北方由来とする学者もたくさんいらっしゃいます。学説としてはもっともであり、私もずいぶん悩みました。その結果、私なりに納得した最新の主な成果を整理し、まとめたもののがこのブログです。日本人の起源についてこれから新しい情報がどんどん入ってきます。これからも皆様といっしょに考えてみようと思います。


 さてこれまで土器の年代を断定的に書いていますが、これらの年代は特に明記のない限り放射性炭素年代測定を補正した年代推定に従っています。土器の年代測定技術はまだ完全には確立されていないため .精度の高い推定は難しく、現在でも研究途上にある技術です。縄文時代の年代は一般的には1万年間といわれていますが、流動的なものです。約1万6000年前 から約2300年前とすればほぼ間違いはないでしょう。約1万3000年前からスタートという研究家も多くいます。

 その年代測定法で最近、決定的とも思える測定法が開発されてきました。年輪年代法です。年輪年代法とは、木材の年輪の変動変化を調べることによりその木の伐採年代や枯れ死年代を知る方法です。年輪はその年の気温で広かったり狭かったりします。それを現在から順を追って調べていくと、その木が伐採、枯れ死した年代が分かります。この方法の良さは、木材の各年輪が作られた年を一年単位で決定できることにあります、得られた年代に誤差がないという点では数ある自然科学的年代決定法の中でもとりわけ優れた方法です。

日本ではヒノキや杉について、過去約3000年分が分かるようになりました。放射性炭素年代測定で求められる年代は必然的に数十年から数百年の統計的な誤差が含まれますが、年輪年代法を併用することによって、より正確な年代の決定が可能となりました。土器などの年代決定法はこうです。土器と同じ地層から木片が発見されるとその木片の年輪年代を測定し、土器もその時代のもの、と判断するのです。そ以前の土器は時代が分かった土器を基本にして年代を推定していきます。奈良国立文化財研究所が膨大な試料をもとに開発しました。一つ一つの試料すべてに当たるという粘り強い努力が実を結んだのです。

2010年6月6日日曜日

カンガルーを食う

 ◆年間300万頭余を射殺

 私は原則、毎日このブログを書いていますが、知り合いの中にはインターネットのできない人もいらっしゃいます。それらの方々へ向け、印刷屋さんでいただいたミスプリントの裏紙を使ってコピーを作り配布しています。そうさせていただいているお一人から「中国や朝鮮の犬食いのことを欧米諸国が非難していることは知っていた。だけど欧米諸国は日本の捕鯨についても攻撃してくる。これも取り上げてほしい」と言って来られました。欧米の非難はマスコミでもよく取り上げられており、ここでは細かいことは書きませんが、アジアからみて欧米側に動物食の不当性がないと言えばとんでもありません。

 実は豪州人はカンガルーを食べているのです。あのつぶらな瞳・長いまつげ、お腹の袋で赤ちゃんを育て、草原をぴょんぴょんはねるあの可愛いカンガルーをです。カンガルーの縫いぐるみを持っている女の子が聞いたら卒倒するでしょう。豪州は、作物や牧草を守るためという理由で年間300万頭余の野生のカンガルーを撃っているのです。その多くがカンガル-狩りを趣味にしている人です。射殺したカンガルーの相当数を食べています。カンガルーは「高蛋白・低脂肪・低コレステロール・高ミネラル」という理由で。日本のマスコミは表立ってこれを攻撃しません。カンガルー食の事実も最近になって少しだけ報道した程度です。正面きって報道しない理由は分かりませんが、メルボルンやシドニーには支局を開設しているマスコミが多いのにもかかわらずです。実体を現地取材すべきなのです。カンガルー食を日本人として許すことができるでしょうか。

 日本政府も弱腰です。豪州は5月末、南極海での日本の調査捕鯨をやめさせるため、オランダ・ハーグの国際司法裁判所に訴えを起こしています。日本政府もカンガルー食の不当性を国際司法裁判所に起こすべきなのです。そうすれば対等に交渉できます。新政権の英断に期待します。

 あらためていいます。捕鯨禁止を言うならば豪州はまずカンガルー食を止めることです。それをしないで他国に鯨を食うな、と言えないはずです。結局、西洋文化は高く東洋文化は低い、との身勝手な発想から日本に捕鯨禁止を要求するのです。日本の捕鯨は数千年の歴史があります。豪州のカンガルー食はたかが200年でしょう。文化、歴史を理由に言いがかりはよしてほしいものです。

 食材というものは、その地域の自然と密着していますから、他の地域と違って当然です。また地域によって食のタブーがあるのも当たり前です。たとえばインドでは牛はたべませんし、イスラム諸国では豚肉は拒否されます。またイスラエルではイカやタコは食べません。

 それぞれの国によって食べてよいもの、悪いものは違うのです。そこで国際会議を開いて食の違いを互いに認めるべきなのです。中国や南北朝鮮が「犬を食う」と宣言すればそれはそれで認めてあげるべきなのです。私は決して犬やカンガルーを食べようとは思いませんが。

 ただ韓国や中国の場合、犬食は厳密には違法性が残るため陰でこそこそ屠殺、解体、料理が行われているのが現状です。当局による十分な衛生管理が行なわれておらず社会問題化している部分もあります。それを完全合法化にすることにより衛生面を確立すれば、れっきとした食文化となるでしょう。食べる食べないは各自の自由です。一刻も早く食文化の違いを認め合う国際会議を開いてもらいたいものですね。

2010年6月5日土曜日

犬を食う朝鮮、中国

 ◆韓国では200万頭が犠牲に

 犬は、狩猟犬として働いたり、番犬を勤めたり、さらには愛玩動物として人間家族の一員になるなど、人間にとって極めて相性の良い伴侶です。洋の東西を問わず人間は昔からいつも犬を伴ってきました。ところが弥生人は食用とするため弥生犬を伴って中国大陸から日本列島に移住したのです。当然、出身地の中国人も犬を食べていました。その習慣はなんと現在まで続き、辺地の少数民族を除き、漢民族は犬を食べます。

 中国だけではありません。これまで中国が支配したことのある朝鮮半島やベトナム北部の人々も犬を食べます。これに対し欧米のマスコミは韓国、中国でオリンピック、万博、サッカーワールドカップなど国際的な催事のあるとき「犬を食べる野蛮国」と非難します。ブリジッド・バルドーさんが韓国ワールドカップやソウルオリンピックのとき、「犬肉を食べるような野蛮なことをしないで欲しい」と、韓国に働きかけたことは有名な話です。この2カ国以外ではポリネシア、ミクロネシアの島々で食べられているぐらいで、犬食文化を現在、保持している民族はほとんどありません。

 犬肉料理としては、韓国料理のポシンタンが有名ですね。韓国では2006年、韓国国務調整室が行なった調査によりますと年間200万頭の犬が食べられているそうです。すごい数です。2008年の調査によりますと、ソウル市内だけで530店の食堂が犬食を扱っているそうです。さすがに大通りでは人目、特に外国人の目があるため営業されず、裏通りや路地にひっそりと店構えをしているそうです。昨夏、ソウルを訪問したとき、ポシンタン店があれば写真に撮りたいと裏通りをうろつきましたが、ハングルがよく読めないこともあり、目指す店は発見できませんでした。

 北朝鮮においては、食糧難の中、数少ない蛋白源として珍重されているそうで、平壌観光のガイドブックには「朝鮮甘肉店」と紹介されてそうです。甘肉というのは犬肉のえん曲表現で、外国人の場合、案内員に頼めばば朝鮮甘肉店へ連れて行ってもらうことも可能との説もあります。欧米の批判の影響を受けにくいこともあってか、平壌甘肉店は堂々と大通りに面した場所にあるとか。

 中国では蛋白供給源としてはもちろんのこと、医薬品としても用いられてきました。漢方医の教科書である『本草綱目』にも犬食の記載があり、滋養強化に役立つと説いています。もっともこの本は人肉食も薦めており、今から考えるととんでもない間違いを犯した側面もあります。日本ではさすがに人肉食を薦める部分は削除されて発行されたようです。

 弥生人は犬を食べていたのですが、その後の日本では仏教の伝来、犬公方綱吉の「生類憐みの令」などによって食犬はもちろん、動物食は次第に廃れ、明治維新で牛を食べることが事実上、解禁されまで、公に動物を食することはされませんでした。もっともいろいろな名目をつけて牛などがこっそり食べられたようですが。どういうわけか日本人は世界でも珍しく食べるための家畜の飼養をほとんどしなかったのです。弥生時代には豚も食用として入ったのですが、その後、本格的飼育はされていません。山羊も関東に伝わる羊太夫の伝説のように日本に入るには入ったようですが、いつの間にか飼われなくなりました。日本人が飼ったのは馬と牛で、馬は武士の乗馬用、牛は農耕用として飼育され、食用の目的はありませんでした。その意味で日本人は潔癖だったのです。この食用目的の動物飼養をしなかったことが、山野の緑を守り、美しい日本列島を維持することが出来たのです。肉食を我慢した祖先に感謝しなくてはなりません。

2010年6月4日金曜日

見出された縄文柴犬

 ◆右回りと左回りと
昨日の記事をおさらいすると、数万年前にバイカル湖付近にいた古代パリア犬が古モンゴロイドに連れられ、1群は北から日本列島に入り、縄文犬になりました。別の1群は同じく古モンゴロイドに連れられ、中国南部、インドネシア北部に移り、やがて日本列島にやってきた、というわけです。インドネシアに残った古代バリア犬は現在のバリア犬になりました。

 北海道にいた縄文犬は北海道犬の祖犬となりまた。沖縄にいた縄文犬は、琉球犬の祖犬となりました。おもしろいことに北海道犬と琉球犬が近縁であることが、血中タンパク質の遺伝子組成を比較した最新の調査で確認されたということです。バイカル湖付近にいた犬が中国を右回りと左回りで日本で再び合流したのですね。またアイヌの人々と沖縄の人々は遺伝子的にきわめて近い関係にあるそうです。古モンゴロイドが朝鮮経由も含め3通りのコースで日本列島で合体したのです。朝鮮半島経由の人々も当然、犬を連れてきた、と思われますがその分布はよく分かっていません。

 やがて縄文犬は渡来してきた弥生人が連れてきた弥生犬と混血し、柴犬、紀州犬、甲斐犬、四国犬などに分かれました。このうち柴犬がもっとも縄文犬の特徴を引き継いだのです。縄文犬の特徴はやや小型で、額が広く平らで額段が浅く面長です。額段というのは鼻筋の延長線上にある額が筋状に落ち込んでいるもので、縄文犬はほとんどこれがなく、弥生犬は額段が深く大きく頬骨が張り出しているのです。柴犬は混血がすすんだせいか額段の明瞭な犬が多いのです。

 ◆区分けは額段

 ところが1950年代ごろから額が広く平らで額段が浅く面長なタイプの血筋の柴犬が見出され、縄文柴犬と名づけられて育まれ始めました。

 長い歴史の中で、日本民族と共存して来たこの縄文柴犬は、原種的な素朴さと野性的な性質の鋭さを今も失ってはいません。鋭い警戒心がありながらも、飼い主には大変に素直で従順であり忍耐強く、陽気で純情などの特性があります。力強く締まった体躯で軽快、弾力性があり、俊敏・機敏・敏捷で勇猛な動作を示します。鋭く輝いた眼、良く締まった口などは単純でバランスも良く、品位のある顔貌が備わっていて野性的な美しさがあります。

 この地球上には数百種類以上もの犬が存在しますが、縄文柴犬は数万年前から原型に近い形態を残していると考えられます。極めて珍しい貴重な一種としてとらえる必要があるのです。いかなる科学の英知があったとしても、この地上から縄文柴犬が一旦滅びたとしたなら、それを甦らせることは不可能です。関係者の努力に敬意を表すものです。ただここで注意しなくてはならないのは一般の柴犬も縄文柴犬としてあつかわれたり、ごっちゃな表現が多いことです。ここではやはり額が広く平らで額段が浅く面長なタイプのもののみ、縄文柴犬として表現すべきではないかと思いますが、皆様のご意見はいかがでしょう。

2010年6月3日木曜日

祖先は犬 「犬祖伝説」

 ◆人間とともに移動

 5月下旬に犬を愛した縄文人、犬を食べた弥生人の話を書きましたら多くの

反応が返ってきました。そこで犬のことをもう少し書きます。


 縄文人の犬を食べない風習は、彼らの先祖が古モンゴロイドで、直接的には

ブリヤート人であったことが遠因といえます。ブリヤート人など北方系ツング

ースや古アジア、コリヤーク、モンゴルなど北方系のすべての民族に共通して

いるは「犬祖伝説」です。狩猟民族であった彼らは自分たちの祖先が犬から生

まれたと信じ、犬を大切にします。しかもバイカル湖付近の北方系狩猟遊牧民

族は地球が寒冷化したときに、一部が動物を追って南下し南部中国やインドシ

ナ北部の少数民族なった可能性があります。彼らの風習も犬をとても大切にし

ます。中国をは挟んではるかに離れた民族が共に犬を大切にする、という共通

した風習を持っているのです。ということは北方縄文人は北方系古アジア民族

系統から生じ、九州縄文人は中国南部、インドネシア北部の少数民から生じた

ということになるかも知れません。つまり南方の少数民族の伝承の大元はバイ

カル湖付近の民族にあった可能性があります。

 ちなみに南方系縄文人の色合いが強いとみられる宮崎県椎葉村の山猟師も、
北方系縄文人の血が濃いと考えられる東北のマタギも、ともに犬を非常に大事

にし、イノシシや鹿を撃ち取り解体したときは、必ず最初に動物の肝を最も狩

に貢献した犬に与えるそうです。これらの民族のDNA分析が早く進むとい

いですね。ところで大陸から連れてこられたとされる縄文犬は、古代犬である

パリア犬の子孫の一種でもあるらしいのです。パリア犬は今でも南アジアの村落に住んでおり、古代は主に狩猟犬として、鹿や熊などを狩るのに用いていたとみらています。バイカル湖付近から古モンゴロイドに連れられて南アジアにきたのかも知れません。

 考えてみますと、犬が自分の意思で大陸を勝手に移動することはありません。まして単独で海を渡ることは考えられません。犬は人に伴って移動するのです。動物考古学の西本豊弘・国立歴史民俗博物館教授によれば、犬を見ていくことで、歴史の中での日本人の動きを探ることができるといいます。

2010年6月2日水曜日

どうやって丸太の半割を作るの?

 ◆石の楔を打ち込みます

 5月25日付の本ブログ「人類初期文明の1つ」に下記のようなコメントが寄せられました。

「丸木舟の製作方法は木材を半割りしたものの上に、焼いた石を置いて木材を焦がしながら、磨製石斧でくりぬいたものと推定されています」とありましたが、どうやって半割が出来たか分かりません。

         浩太郎

 浩太郎様 コメントありがとうございました。縄文人がどうやって丸木舟を建造したか、への疑問です。丸木舟は直径が1㍍、10人乗りもの大きな物もあります。その丸太をどうやって半割りにしたのか、その方法が分からぬ、というのがコメントの趣旨です。私も質問を見て「オヤ!」と思いました。さっそく、手持ちの文献を調べてみましたが私を納得させるような資料がありません。そこで直径1㍍もある丸太をどうやって半割りにするのか思考実験をしてみました。答えは意外に簡単にみつかりました。皆様はキャンプなど遊びではなく生活のための真剣な薪割りをしたことがあるでしょうか。50代以下の方は少ないと思います。子供のころ風呂やカマドの薪を作るのが私の仕事でした。薪を作るため木の性質を知ったのです。木は縦には割合簡単に割れますが、横にはまず割れません。ノコギリも横引きのものは目が細やかで、縦引きのものは目が粗くできています。ナタでも縦方向は簡単に木は割れますが、横方向だと徐々に削っていくことしか出来ません。

 縄文時代の丸木舟建造の場合も同じです。丸太は根元の方を元、葉がある方を末と申します。丸太を半割りにするには末の切断面に磨製石器の丸ノミ石でⅤ字型に溝を作ります。そこに楔型(くさびがた)の石を溝沿いに挟み込みます。直径が1㍍もある大きな丸太なら何個も楔形の石を挟みます。そして合図とともに石の数だけの人間が別な大きな石で楔形の石をたたきます。そうすれば徐々に割れ目が拡大して元まで届き、丸太を半割りにすることが出来るのです。

 これは思考実験です。実際にそうやって直径1㍍もの丸太を割った訳ではありません。どなたか実験考古学の手法を活用して丸太の半割りに挑戦してはいかがでしょう。立派な研究論文が出来ると思います。

2010年6月1日火曜日

稲作は縄文から

 ◆熱帯ジャポニカ米を栽培

 ところで稲作というと、これもかつては弥生時代に入ってから栽培された、といわれていました。しかし「鬼界カルデラ大噴火」の稿で書きましたように縄文時代にも米はあったのです。6000年前の縄文遺跡から米特有のプラントオパールというガラス質の繊維が検出されました。縄文人も米を食べていたのです。縄文の壺型土器は稲、ヒエ、ハト麦などを貯蔵するために開発された土器だと考えられています。ただし弥生時代の米とは米の種類が違いました。縄文の米は熱帯ジャポニカ米です。熱帯ジャポニカ米は陸稲で、比較的水分が少なくても栽培しやすく、管理にもあまり手をとられません。焼畑農業的に栽培されていたらしいのです。縄文時代には寒冷・温暖・寒冷の気候循環があったのですが、その温暖の時に熱帯ジャポニカ米を栽培したようです。

 日本列島に熱帯ジャポニカ米を持ち込んだのは南方系縄文人でした。南方系縄文人の祖先はインドネシア付近にあったスンダランドという小大陸から、琉球諸島を経て日本列島に入ったのですが、そのとき熱帯ジャポニカ米を丸木舟に積んで運んで来た、と推定されています。今でも熱帯ジャポニカ米はインドネシア・ジャワ島の特産品です。

◆温帯と熱帯のジャポニカ

 世界には、インドを中心として栽培されている長粒子(インディカ米)、日本、朝鮮半島、中国の多くの地域、アメリカ、オーストラリアなどでつくられている短粒子(ジャポニカ米)の米があります。インディカ米はカレーやピラフにすると良く似合うので、愛好家もありますね。世界では主流派の米です。ジャポニカ米はさらに水稲の温帯ジャポニカ米と陸稲の熱帯ジャポニカ米の2系統があります。陸稲の熱帯ジャポニカ米を日本に持ち込んだのが縄文人、水稲の温帯ジャポニカ米を日本に入れたのが弥生人でした。

 前掲を除く主な参考資料
 『Newton別冊 血液型、海流で探る日本人のルーツ』竹内均 (ニュートンプレス)
 『争点日本の歴史1原始編』鈴木公雄編(新人物往来社)
『講座日本歴史1原始・古代』歴史学研究会・日本史研究会編(東京大学出版会)
 『遺伝子・DNA 3- 日本人のルーツを探れ- 人類の設計図』(NHK出版)
 『縄文文明の発見』梅原猛・安田喜憲編著(PHP研究所)
 『世界史の中の縄文文化』安田喜憲、(雄山閣出版)
 『森の日本文化 縄文から未来へ』 安田 喜憲( 新思索社)
 メルマガ『国際派日本人養成講座』伊勢雅臣
 デーリー東北新報 各号
 読売新聞 各号
 『斧の考古学』佐原 真 (東京大学出版会)
『食の考古学』、佐原 真 (東京大学出版会)
 『考古学つれづれ草』佐原 真 (小学館)
 『日本の犬・歴史散歩』 真壁延子著 (文芸社)
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