2010年6月25日金曜日

金属器を日本に持ち込む

 ◆水稲は東シナ海を越えて

  6月19日号「漢民族、長江を侵略」の記事の中で、長江の下流にいた長江民の一部が北上、山東半島から北朝鮮に上陸、南下して九州に至ったーと書きました。九州到着は紀元前800年のころと思われます。これが弥生人第1号になるのですが、漢民族からは倭人と蔑称(べっしょう)されていました。長江を脱出したのは紀元前2200年以降と思われますので、九州に来るまでに約1400年近くかかっているわけです。この弥生人第1号は水稲を持参しなかった可能性が強いのです。なぜなら朝鮮北部での水田跡は近代以降のものであり、朝鮮半島で確認された最古の炭化米が紀元前2000年で、それは陸稲でした。陸稲は縄文中期には既に日本列島で栽培されていましたので、初期弥生人が持ち込んだものでもありません。

  倭人はもちろん長江下流域を脱出するとき水稲の籾(もみ)を持って出た、と思われます。しかしたどりついた朝鮮北部は冷涼な地で、当時の栽培技術や品種ではとても栽培できなかったのです。水稲をあきらめ畑作や狩猟採集の生活をしながら徐々に朝鮮半島を南下しました。その途中で原朝鮮人との混血もあったでしょう。青銅器文化は最初から持っていたと思われます。

  これについて彼らは弥生人といえないのでは、という考えもあります。弥生時代の始まりを表す最も大きな文化的要素は、中国大陸から伝来した水田稲作農耕と朝鮮半島からきた金属器です。その水稲文化がなければ弥生人とはいえないかもしれません。しかし九州に上陸した人々が金属器を持ち込んだ可能性は高いのです。鉄器と青銅器はまず九州北部に朝鮮半島よりもたらされ、鉄器は主に実用品として、青銅器は主に祭祀(さいし)の道具として使用されるようになっていきました。その後、近畿地方、さらに関東地方など東日本にも広がりましたが、弥生時代を通じて中国大陸・朝鮮半島に近い九州北部が、金属器を豊富に所有していました。特に鉄器は他の地方に比べ多く所有したことが知られています。

  最初の弥生人が九州北部に到着したのは繰り返しになりますが紀元前800年ごろです。従来の学説では弥生時代の始まりは紀元前300年ごろ、とする説が多かったのですが、年輪年代学などの進歩により、最近は弥生時代の始まりを500年ほどさかのぼって紀元前800年ごろとする説が強くなっています。

  では誰が水田稲作の技法を伝えたか。東シナ海を乗り越えた長江周辺の人々でした。中国では春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)に紀元前770年に突入、戦乱の世となり多くの国々が覇権を求めて相争ったのです。この結果、長江周辺、江南(長江の南側地区)の漁労稲作民が戦乱を避けて東シナ海を渡り九州に移住しました。もちろん水稲の籾を持ってです。百越と呼ばれた非漢系の人々でした。戦乱のたびに次々移住してきました。その数は時代が少しずれますが東京大学の人類学者埴原和郎氏によりますと紀元0年を中心にした前後約600年間に150万人の渡来者があったと推定されています。平均で年間2500人もの移住者があったわけで、およそ1万年続いてきた縄文時代は終わり、金属器を背景にした水田稲作農耕が開始されたのです。これにより食料生産経済の幕が開かられたのです。

  もちろん日本列島が一斉にそうなったのではありません。東から序々に西に広がった、と考えられます。時により縄文人と争い和合し、混血しながら。

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