2010年6月24日木曜日

水田を守った森林が崩壊

 ◆洪水が続発した長江

  漢民族の侵攻で長江人が4つのグループに四散されたことはこれまでに書きました。3つ目のグループ、現地捕囚組はどうなったでしょう。実はこれがよく分からないのです。史書に出てくるものは漢民族の話ばかりで、最下層に追いやられた長江人の記載はありません。中国人学者によると黄河文明と長江文明が合体して黄河長江文明になった、という説もありますがはっきりしません。いずれにしても水田はそのまま残り、その仕事は多分、隷属化された長江人が担ったのでしょう。水田の生産性のよさを漢民族が見逃すはずがないのです。

  また混血が進んだことも十分に考えられます。漢民族の習性として血統に少しでも漢民族の血が入れば漢族として認定しますし、服装など漢文化を押し付ける漢化は得意中の得意です。漢文化は世界最高の文化で、異民族を漢化することは最高の道徳として考えるからです。中華思想が当時から芽生えていた、と考えれば良いでしょう。

  ただ水田に隣接して広がっていた森林は崩壊しました。黄河文明の漢民族は放牧畑作民族、牧畜畑作民族でしたから森に家畜を放し、次第に丸坊主にしていったのです。また樹木も彼らの住居や都市づくりに伐採され、急速にその面積を失いました。特に春秋戦国時代に入ると鉄器が実用化されましたから、その燃料に森林が使われたのです。


  それでも詩歌などに残る文献では唐時代までは辛うじて残存していたようですが、明時代に入ると森林を読んだ詩歌がないことから全滅したものと思われます。私が南京から上海まで旅行したとき、車窓からは樹木らしいものはほとんど見えませんでした。南京の博物館そばの疎水に生えていた柳と鄧小平が植えたという南京の街路樹が印象に残ったぐらいです。

  森を失ったことは人々に不幸をもたらしました。森が持つ保水、洪水調整能力が失われたことです。また水田を維持する網の目のように張り巡らされた水路も漢族の管理能力では手に余るものでした。こうしたことから長江流域に水害が続発したことは言うまでもありません。歴史書に明記された通りです。

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