2010年6月19日土曜日

漢民族、長江を侵略

 ◆青銅の武器を持ち騎馬で南下

  地球寒冷化は黄河流域では気温の低下とともに乾燥化を伴い、畑作物の収穫を激減させ、家畜や馬の餌となる青草が枯れました。黄河文明の放牧畑作民族は同時に騎馬民族の性格も持っていましたから、民族挙げて馬に乗り、青銅の武器を持って南下しました。騎馬民族にとって、長江文明の民は敵ではなかったのです。長江人は精巧な玉器を作る高度な技術は持っていましたが、青銅器の武器は持っていませんでした。平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようです。また比較的平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われます。長江文明が持っていた環濠、城壁は身内の争いに備える程度のものでしたから、異民族の侵略に耐えられるだけの強固なものではありません。長江人は簡単に敗れました。

  司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事があります。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民、漢族は黄河文明の担い手であると見てよいでしょう。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話があります。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王です。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って敗れ、首をはねられたといいます。

◆一部は日本へ

  戦いに敗れた長江の民を待っていたのは4つの運命でした。上流域の民は中国大陸を南下、雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となりました。同時にその一部は混血しながら百越(ひゃくえつ)になったとみられます。最下流域に住む一族は漁労民でもありましたからその一部は海岸沿いに逃げ、台湾に生活の場を求めます。戦前、生番族、高砂族と呼ばれた台湾先住民族のことです。下流域にいた一部は漢族のいなかった黄河下流方面に北上、山東半島を経て黄海をわたり、北朝鮮に上陸します。さらに南下を続け紀元前800年ごろに九州に到着しました。中国人からは倭と呼ばれました。最初の弥生人になった人々です。漢民族の捕囚下となった人々は圧政下、引き続き稲作漁労を最下民として担当します。漢族との混血は続き今日の上海人の基本的特徴に至っているかもしれません。

0 件のコメント:

コメントを投稿