2010年6月18日金曜日

黄河文明が誕生

 ◆牧畜畑作を営む

 長江文明のすばらしさを書きましたが、その長江文明に遅れること約1300年後の紀元前5000年ごろに黄河中流域に自然収奪型の牧畜畑作文明が誕生しました。いわゆる黄河文明で、担ったのは漢族の直接の祖先筋に当たる民族です。初期は栗の栽培,家畜の飼育をしていたようです。馬を飼い栽培品種は次第に広がっていきました。

 黄河文明が発展していく中で都市が誕生してきます。中国古代の都市を邑(ゆう)と言います。邑という字は口と巴からできていますね。口は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁を表します。巴は人が座っている姿を字にしたものです。つまり人が集まって城壁の中で暮らしている。これが邑というわけです。城壁の中でないと暮らせない理由がありました。邑と邑が互いに争ったのです。こういう邑が黄河中流域にたくさんできてきます。

 ◆青銅器で武装

 彼らは青銅器を持っていました。農耕でも使われましたが、それ以上に人を殺す武器として発展します。青銅器を使い近隣の邑を侵略して支配を広げていきます。牧畜畑作で階級分化した社会では、支配者階級が青銅器による武力をもって下層階級を支配しました。

収奪と侵略の中で、武器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのです。生産性の増大は人民を兵力として動員する事も簡単でした。自然をどんどん切り開いていく「力と闘争の文明」の民でしたが、その活動場面は黄河中流域に限られていました。下流域に進出したかったのですが、黄海近くの黄河は大雨が降るたびに流路を変え、とても危険で住み着けなかったのです。しかし移動せざるを得なくなる事態が生じました。

4200年前に起こった地球の寒冷化です。

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