2010年6月28日月曜日

年速2.5キロで東へ

 ◆広まった水田稲作

弥生時代の始まりは紀元前800年前にさかのぼる、と記しましたら読者の方から最近は紀元前10世紀にさかのぼる、という説もある、との指摘を受けました。私もそれは知っていたのですが、弥生の始まりは学説により紀元前300年から紀元前1000年と大幅に開きがあります。そのどれを取るかは何を力点にして弥生のスタートとするか、という価値判断であり、私は現時点では紀元前800年が妥当な線だろうと考えています。ただ全体としては弥生のスタートはさかのぼる傾向にあり、ごく近い将来、紀元前1000年が常識となるかもしれません。

さて弥生時代の最大のエポックは水田稲作の始まりです。念のため縄文末期にはすでに水田稲作が一部でされていたことも事実のようです。その水田稲作は九州をスタートに東に広がっていきまいた。近畿南部に伝播するまでに約300年、南関東までは700年近くで到達しました。紀元0年前後にはなんと北緯41度まで北上しました。青森県の下北半島です。本州最北端まで800年で到着したわけですね。これを早いと見るかゆったりと見るか、研究者によって見解は異なりますが、その距離はざっと2000キロですから年間2.5キロの東進速度となります。水田造りは開墾、整地(地面を平らにする)、あぜ作り、水路開削と極めて複雑です。それを年間2.5キロの速度で切り開いていくのですから、私は弥生人の意欲に心から敬服します。

津軽の田舎館(いなかだて)遺跡では、2000年前の水田跡が見つかっています。広範囲に整然とした水田の小区画がたくさん広がっており、なかには人間の足跡もありました。それも大人、子供の足跡が見つかっており、家族総出で水田経営と取り組んでいるのが垣間見れます。田舎館遺跡では水稲の温帯ジャポニカと陸稲の熱帯ジャポニカの雑種を植えていたことが分かっています。雑種を植えながら、次第に全体的に水稲に変わっていったのです。 温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの雑種は比較的、冷涼に強く、この特性を田舎館の人々は見抜いて栽培していったのでしょう。

縄文時代の稲は熱帯ジャポニカでした。日本列島では、かなり長い年月にわたって稲作に対する経験が蓄積されていたのです。そこへ弥生時代になって温帯ジャポニカが外来文化とともにもたらされました。適応は割合簡単だったと思います。

熱帯ジャポニカの自然の生息環境は、ある時は乾いた土地、ある時は水たまりのような湿地です。南方系縄文人によっておそらく他の雑穀などとともに日本にもたらされ、未分化な環境の中でしっかり日本に根付いたのです。縄文人はこの熱帯ジャポニカを主に湿地帯やそれにつながる土壌に植え、稲作の経験を積んだのです。そこへ弥生人が持ち込んだ温帯ジャポニカが混じり、次第に水田化していったと思われます。年速2.5キロの東進速度もあながち無理とはいえないでしょう。

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