2010年6月13日日曜日

水稲栽培は長江中・下流域でスタート

 ◆再生と循環の文明

弥生時代(一般的には紀元前300年~紀元300年。もっとさかのぼるとの説もある)は中国からの渡来人によって日本列島が席巻された時代だったのです。その渡来人は水稲と鉄器文化をもたらしたのですが、彼らは中国のどのあたりに住み、どのように水田を営んでいたのでしょう。

 水稲は中国の長江(揚子江)中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったとみられています。7000~5000年前になると、長江デルタの中国浙江省の河姆渡遺跡から水田稲作の跡が発見されています。

水田を栽培していた民族は6300年前、長江流域に初期文明を誕生させました。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期か、さらに古く、黄河文明よりも1000年以上も早いことになります。魚を捕る稲作漁撈民でもあり、自然と共生する「再生と循環の文明」であったのです。長江文明といいます。

その代表が湖南省の城頭山遺跡です。直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていました。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明しています。また 約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかりました。

さらに出土した花粉の分析など環境考古学的調査で、都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森が周辺にあったことが分かりました。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていたのです。

深い森と豊かな川と青々とした水田。長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらの懐かしい風景とそっくりではありませんか。弥生につながってくるのは当然です。

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