2010年6月8日火曜日

高地性環濠集落

 ◆緊張関係にあった妻木晩田遺跡

 私はなぜか子供のころから古代に興味を持っていました。直接のきっかけは中学生のころ鳥取市の湖山砂丘に石の鏃(やじり)を探しに行ったことです。人づてに湖山砂丘には鏃が落ちている、と聞き、これは面白そうだ、と買ってもらったばかりの中古自転車に乗って当時の自宅からは約8キロ離れた湖山砂丘に入り込んだのです。当時の砂丘は砂防林に覆われ、中に入り込むと迷ってしまい、半べそ状態でした。それでも2,3個の鏃に似た石を拾い、意気揚々と帰りました。大人になって考えるとそれは黒曜石のあの光る黒い色彩がなく、単なる石ころだったと思われます。その石も引越しを繰り返す中で失ってしまい、今は懐かしい思い出になってしまいました。

 さて弥生時代です。弥生時代を代表する鳥取県米子市淀江町の妻木晩田(むきばんだ)遺跡は自宅から車で2時間ほどのところにあります。これまで3度ほどおじゃまし、そのたびに思うことがありました。それはなぜこんな高いところに家を建てたか、ということです。妻木晩田遺跡は晩田山の尾根筋に広がり、標高90-150mの高さがあります。日本海をはじめ弓浜半島、島根半島が一望でき、すばらしい眺めです。ということは生活の基盤だった水田は遠くにあるということです。実際に歩いたわけではないけれど、住居と水田とは急坂を20―30分歩かねばなりません。なぜこんな不自由なことをするのか、それはすぐ分かりました。環濠の存在です。環濠は集落をぐるりと取り囲んだ堀です。敵の侵入をこの堀で防ごう、というわけです。敵に攻め込まれにくい高いところに集落を築き、さらに濠で守る、大変な努力です。高地にある集落を高地性集落、環濠のある集落を環濠集落と呼びますが、妻木晩田遺跡はその両方がある集落だったわけです。どんな敵が周辺にいたのかは分かっていません。

 それにしてもこんな緊張関係にあった弥生時代には住みたくありませんね。

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