2010年6月26日土曜日

温帯ジャポニカ種の水稲を持参

 ◆百越は弥生人と同じ文化

  東シナ海を渡って渡来系弥生人になったのは「百越」と呼ばれる人たちであった、と昨日、書きました。ではその百越と呼ばれる人たちはどのような人種だったのでしょう。漢族の古いことわざに「北方胡(こ)南方越」という言葉があります。黄河中流の中原と呼ばれる地域が活動の主体だった漢族にとって最大の敵だった民族のことを言っているのです。北にいた胡人、南にいた越人を指します。

  胡人は今でいう蒙古人、満州人、ウイグル族などを指し、騎馬遊牧民族です。越人は長江以南にいた民族で、現在は漢族化され具体的イメージはありませんが、福建省、広東省、ベトナムに住む人々にその血が流れています。水田稲作を生業にしていた民族で漁労にも長けていました。越人は古代には百越(ひゃくえつ)あるいは百越族と呼ばれ、主に江南と呼ばれた長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいました。越諸族の総称です。越、越人、粤(えつ)とも呼ばれていました。

  文化面では、稲作、断髪、鯨面(入れ墨)などの特徴を持ち、百越と倭人の類似点が中国の歴史書にも見受けられます。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)が百越人の嗜好で、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられています。モチ、納豆、コンニャクなども彼らの文化です。


  言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う漢民族とは言語が異なり、言葉は通じませんでした。実は百越も国を持っていた時代がありました。春秋時代には、呉や越の国を構成していました。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれました。秦は中国最西部にあった国で、始皇帝は漢族というより西域の人でなかったかと推測する学者もいます。有名な兵馬俑の将兵は多数の民族で構成されていますが、漢族より西域の人の特徴がある将兵が多くいるようです。また始皇帝陵の陪葬墓から出土した人骨がペルシャ系のDNAと同じ特徴を持つ男性の骨と分かりました。呉や越は漢族というより西域の国に乗っ取られたのかもしれません。その秦も農民反乱で敗れ、漢族の国家「漢」が誕生しました。百越は圧迫されました。

  その百越が多くの戦乱を逃れて九州にやってきたとき持参したのが2種類の温帯ジャポニカ種の水稲なのです。遺伝分析では温帯ジャポニカは九州からさらに朝鮮半島に渡った、と推定されます。従来の学説では朝鮮半島から日本に伝わった、と考えられていましたが、起源は日本の方が早いことが定説になりつつあります。

  彼らは優れた航海者でもありました。弥生時代後期の岐阜県・荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれています。長江で育った民は、漁労のみならずすでに高度な造船と航海の技術を駆使していたのです。戦乱から逃れて日本まで渡来してくるのに大きな障害はなかったようです。


<お断り>27日は大きな行事が3つもあり、残念ながら「国際派日本人の基礎教養講座」は出稿できません。お詫び申し上げます。

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