2010年7月31日土曜日

アジア諸民族国家を制覇

  ◆戦後、植民地を返さかったソ連 その3



ロシア人たちはアムール河流域に来るまでユーラシア大陸のアジア諸民族国家、民族を次々制覇しています。まずイワン雷帝の時代(1580年代)にコサックの傭兵隊長エルマックの私兵集団がウラル山脈越えの交通路を切り開きました。付近はタタール人のシベリア汗国の支配地で、同国のクチュム汗の軍隊をうちやぶり、ロシア人によるシベリア支配の第一歩を印しました。その後クチュム汗は反撃してエルマックを敗死させましたが、ロシア人の侵攻は止まりませんでした。

  このあとロシアは南と東でモンゴル系・チュルク系の諸汗国(汗国とは東方系騎馬遊牧民族が打ち立てた国。族長を束ねた大族長が王となった)と次々戦って征服しました。銃と大砲という近代火器に弓矢と剣が主力兵器の諸汗国は太刀打ちできなかったのです。ロシアの圧制に対しツングース系などシベリアの原住民は、時には反乱を起こしたりしましたが、原住民自体が種族ごとに反目していたことと、南の強力なキルギーズやジユンガル国家よりもロシアのほうがより「文化的」であり、原住民にとって「よりまし」なものでありましたからロシアに服属した種族が多かったのです。

  特にジユンガル汗国が清によって滅ぼされたときには、多くの住民や豪族がみずから求めてロシアの保護下にはいり、その代償として毛皮税を支払ったのです。

  ◇清からアムール河以東を奪い取る◇

  ロシア人たちは、17世紀後半にアムール河流域に進出しましたが、当時新興の清朝と衝突しはじめました。これは彼らがシベリア征服を開始していらいはじめてぶつかった強力な相手でした。


  清とロシアとはその後、何回かの衝突、交渉を繰り返し、武力、特に火力に優れたロシアは巧みな外交力を背景に1858年から1860年のたった2年間にに愛琿条約、天津条約、北京条約を清に押し付け、一気にアムール川東岸(右岸)の外満州(東韃靼、沿海州)一帯を清から奪い取りました。アムール川から間宮海峡近くまで広大な土地をわずか数年のうちにロシアが自国領としたのです。それに前後してカムチャッカ半島、ユーラシア大陸東端、さらにはアラスカまで攻め入り、世界最大の領土保有国家となりました。ロシアの清朝圧迫はさらに続き19世紀末には三国干渉を利用し旅順、大連を含む遼東半島を租借、日露戦争の原因にもなったのです。

2010年7月30日金曜日

占領はたった5世代前

  
◆戦後、植民地を返さかったソ連 その2

  日本人捕虜集結の場となったハバロフスク(中国名・伯力)はロシア人が砦を設置してから今年が152年目。わずか5世代ほど前の話です。日本海、オホーツク海沿岸にロシア帝国が拠点を持つのはその少しあと。日本人の感覚では大昔からロシア人が対岸に住んでいた感じがしますが、実態はごく近年のことです。ネット情報によると2008年5月にはハバロフスク市開基150周年記念行事が盛大に行われ、中央部のレーニン広場とその周辺では約1万人が参加する祝賀パレードがありました、式典、祝賀コンサートに続いて夜はアムール川での船上祝賀会と花火大会が開かれ1日がかりのビックイベントだったといいます。駅前広場には花壇が作られ、銅像が整備されるなど記念施設も設けられたそうです。アジア人の土地を奪っておきながら祝賀行事をするとは現代日本人の常識から考えると違和感があります。

◇清の領土を占領

  なぜ白人であるロシア人がアジアにいるのでしょう。ハバロフスクはアムール河(中国名。黒竜江)の右岸中流域に位置し、ウスリー川との合流点のすぐ下流にあります。もともと満州人、ナナイ人などブリヤート系の人々が住んでおりました。満州人が建国した清の領土で、清は間宮海峡近くまでをその勢力圏とし、アムール河の東岸一帯は外満州と呼ばれていました。外満州に住んでいたのは日本人の祖先の一つともいわれるナナイ人、それに女真人(満州人)、モンゴル・ブリヤート系諸民族です。清は女真人保護政策のため、漢族の満州、外満州移住を厳しく禁止していました。

  ◇白人、ウラル山脈を越える

  ところが17世紀ごろから高価だった毛皮を得るためまずロシア人冒険家やいわゆるあぶれ者たちがウラル山脈を越えてシベリアに姿を見せはじめ、あとを追うようにして農牧畜民が移住、原住民から毛皮税を得るためコサック部隊が進出してきました。このハバロフスクにロシア政府が拠点を持ったのが1858年。アムール川を東進してきたロシア帝国部隊が砦(とりで)を築いたのです。17世紀のロシアの探検家エロフェイ・ハバロフにちなんでハバロフカと命名され、その後、ハバロフスクとなったのです。

2010年7月29日木曜日

怨念の町 ハバロフスク

    
   ◆戦後、植民地を返さかったソ連 その1


  「シベリア抑留」「満州最北端から釜山まで大撤退行」はいかがだったでしょうか。ソ連、ロシアという国がいかに日本に対し無慈悲で悪辣な行為をしてきたかがよく分かったと思います。この無慈悲さは日本だけでなく、中国、モンゴルをはじめシベリア先住民族に対しても同じようなことをしてきました。ロシア人の頭の中にはアジア人は猿と同じである、という考えが根付いているようです。

  ではそのロシア人がアジア人の土地であるはずの日本海対岸に住んでいるのか、その対岸も北海道・積丹半島からみればたった350キロしか離れていません。東京を基準して考えると東京・琵琶湖間という短さです。なぜそんなところに白人であるロシア人がいるのか、これについては記者の知る限り誰も問題提起せず、疑問符も投げかけておりません。ロシア人は昔から対岸に住んでいた、という感覚です。くどいようですがシベリアはアジア人の土地で、白人であるロシア人はヨーロッパが本来の居住地です。この異常さが近代アジアの発展に大きな矛盾を与えたのです。

  ◇アジアを侵略したロシア人◇

  ロシア人がなぜ対岸にいるのか、当たり前の話ですが、ロシアがアジアを侵略したからなのです。侵略し、植民地にしてしまいました。ところで第2次世界大戦参戦国は終戦後、戦勝国、敗戦国のいずれを問わず植民地から撤退。植民地は独立したのに対し、ロシアのみが殖民地を手放さなかったのです。なぜロシアのみが植民地を維持し続けるのか、それを解明するのが本稿の目的です。これが理解できれば立派な国際派日本人といえるでしょう。

  すこし昔になりますが記者は2007年7月上旬、4日間の日程でロシア・ハバロフスク市を訪問しました。シベリア抑留日本兵犠牲者の墓参と犠牲者の解脱供養法要参拝が目的だったのですが、ロシア・ソ連のシベリア侵略の実態をわずかながらも垣間見ることができました。

  ハバロフスクは東経135度の子午線上にあり、ちょうど兵庫県明石市の真北に当たります。ウラジオストックと並ぶシベリア最大の町で、人口約60万人。極東連邦管区が置かれ、軍事的には極東軍管区本部があります。いわばロシア連邦の極東支配の中心都市で、一時は軍管区が海軍である太平洋艦隊をも管轄していたこともあります。それだけ重要な都市といえます。第2次世界大戦末期の対日侵攻には総司令部的な役割を果たしました。終戦後は満州、北朝鮮、樺太、千島、歯舞色丹から集めた日本人軍人と民間人捕虜の集結地となり、ここからソ連全土に送り出して強制労働につかせました。極寒、飢え、重労働により日本人捕虜は次々死亡。さらに侵攻による戦死者、行方不明者、暴行され自決した女性などを含めれば日本人約32万人が死亡したといわれます。日本人にとっていわば怨念の町なのです。

2010年7月28日水曜日

朝鮮保安隊に捕まる

  ◆満州最北端から釜山まで大撤退行 その4

 平壌から北朝鮮・韓国との軍事境界線(38度線)まで約240キロ。南下途中にあった年寄り夫婦の朝鮮人民家で軍服と作業衣を交換、南下を続けましたが5人ともあっさり朝鮮保安隊に捕まり平壌駅まで連行されてしまいました。ソ連軍将校の前に突き出され「服を脱げ」と命令されます。フンドシ1枚になるとフンドシの注記は日本語。日本人とばれてしまい女学校の炭小屋らしきところに入れられてしまいました。フンドシまで交換することは思いよらなかったのです。監視のソ連兵の動きを観察していると20分ごとに見回りにきます。炭小屋だから脱出はそれほど難しくはないとにらんで、ソ連兵を逆監視しました。

   ◇ 脱走!南へ逃避行◇

  2日目、ソ連兵のすきを見て窓を音がせぬよう壊して5人とも脱走、南へ、南へと向かいました。時計も磁石もありませんから太陽の位置をみて南を判断。谷あり、山あり、ジャングルありの中を歩き続けました。まともな食料はなく谷水をすすりました。16-17日くらい歩いた時でしょうか、夜間、山上から下を見ると、河があり両岸とも車のライトが走っています。南岸のライトはジープらしきライトで米軍のものと判断。河を渡ることにしました。もちろん橋らしきものはなく、5人とも服を脱ぎ、間隔をおいて泳いで渡りはじめました。しかし東京出身の一人はソ連兵に発見され銃撃を受けました。そしてとうとう泳ぎつけませんでした。
 
   ◇ 米軍に遭遇、自己申告◇

  残された4人はやむを得ず歩き続け、現在は北朝鮮となっている開城を過ぎ、沙里院を通過、汶山で米軍の天幕を発見。近づくと米兵が5,6人いて、英語を話せる田口君が事情を話しました。パン、チョコレート、牛乳などをもらい、そのおいしさに感激。さらに米軍軍用車でソウルまで送ってもらったのです。平壌のソ連軍とは応対が大違いです。ソウル市内の日本寺院で5泊し、朝鮮総督府で引揚証明を発行してもらい、米軍列車で釜山港に到着。引揚船で九州・博多に上陸、山陰線経由で無事、郷里の鳥取に帰れたのは昭和20年10月25日。日本の秋は目にしみる美しさでした。

  ソ連侵攻当時の関東軍は約70万人。そのほとんどがシベリア抑留となり極寒と重労働、栄養失調から6万人とも30万人ともいわれる将兵が帰らぬ人となりました。一般邦人155万人のうち20万人が死亡し、満蒙開拓団約24万人のうち7万人前後が死んでいると想像されます。その結果、栄養失調にかかった多くの日本人孤児が発生、そのうち錦河省壷濾(コロ島)に集結できた孤児はたった300人余り。米軍の工作船で日本各地に送還されたといいます。ソ連軍の残虐な行為と暴民化した中国軍民の仕業で孤児のほとんどが行方布明になり、いまだにその消息は分かりません。日ソ戦争は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、宣戦布告が日本側に伝わるのを阻止した上で侵攻したソ連に最大の責任があります。

  岩本さんらの中隊の相当数の人が日本に無事帰れたのも中隊長の「1歩でも日本に近いところへ」という判断があってのことです。軍命令に従って交戦、残留を続ければ無残な抑留兵となって飢えと寒さと重労働で多くの人が死んだでしょう。中隊長の英断は公式記録には残されていません。しかしそういう生き方をした人もあったということを我々は記憶に留めておきたいものです。

  「満州最北端から釜山まで大撤退行」終わり


 この件で関心のある方は清雅坊あてメールをください。
 a-gama@m.email.ne.jp

2010年7月27日火曜日

車から落ちても収容せず

◆満州最北端から釜山まで大撤退行 その3

悪路が続きます。6、7人が車から転落、死亡しましたが収容する余裕はなく放置したまま逃避を続けました。そのうち昼間の行動はできなくなり夜間のみの走行となります。鳥取部隊がいた延吉を通過、ついに国境の鴨緑江上流に到着しました。しかし橋はなく水深3㍍、幅15㍍はありました。中隊長は近くの朝鮮部落の人と話し合い、山の木を切って橋を渡し無事、渡河に成功しました。お礼に約束していた塩、食料を渡したのは言うまでもありません。

  9月半ばになっていました。朝鮮側には10人程度の日本軍憲兵がいて南下をうながしましたが「本隊と連絡が取れない」と断られ、車1台を置いて別れました。残留した憲兵はその後、ソ連軍に捕まり、憲兵ということで残虐な目にあってはいないかと心配されます。敗戦となっても軍という組織の体制に忠実なのがいいのか、敗戦という状況を見極めて行動するのがいいのか、その人の判断能力と運が問われる出来事でした。


   ◇ 朝鮮保安隊に遭遇◇

  北朝鮮での南下も夜間に限られました。大きな道路は通れないので、トラックがぎりぎり通れる道を選んで平壌を目指して進んでいきました。当時、平壌はソ連軍が占拠していました。平壌まで20キロという地点で朝鮮保安隊(共産党)に遭遇しました。保安隊は日本敗戦とともに朝鮮共産党が結成した武装部隊でソ連軍と連携していました。保安隊は銃に実弾を込め、いつでも撃てる態勢を組んでいました。中隊長は車両すべてを渡すことで無事通過の交渉をまとめあげました。このとき部隊に同行していたのは172人前後。その後は2-5人単位で別れて行動することになり、酒を交わして内地で会う約束をしました。そのとき岩本さんは何者かに拳銃2丁、時計、ヒゲソリを取られてしまいました。武器がなくなったのです。

  岩本さんは5人組みで平壌を目指すことにしました。平壌には出張したことがあり、多少、地理を知っていたためでしだ。徒歩での夜間行軍となりました。つかまればソ連軍に渡されます。夜間行動中、明らかに日本人と分かる人たちが北上していました。聞くと父や兄弟、親戚が満州におり、そこに行く、というのです。この判断もその人の状況把握能力と運によるものなのです。無事満州に着いても結果的にみればソ連軍の捕虜となり、過酷なシベリア送りが待ち構えていたのですから。その時の判断はなんとも言い難いものがあります。

  やっとの思いで大日本塩業の社宅近くまできたが、あの大同江を渡らねばなりません。しかし橋の両端には保安隊とソ連兵らしきものがおり、すきをみて裸になって泳いで渡りました。やっとの思いで3軒ある社宅のうち泊めてもらったことのある加島さん宅のドアをノックしますが、人の気配はあるものの誰も出てきません。当たり前でのことです。真夜中の強盗と思われても仕方がありません。「泊めてもらったことのある岩本です」と小声で言うとやっと扉が開きました。主人は出征中で奥さんと14歳の男の子がいました。5人で3日間泊めてもらい、涙の別れとなりました。

2010年7月26日月曜日

ソ連軍と撃ち合いながら南下

  ◆満州最北端から釜山まで大撤退行 その2

  ◇甲種合格、戦車兵に◇

  そうした良き時代は戦争の深刻化により長くは続きませんでした。郷里の役場兵事係からは徴兵検査を受けるよう連絡がありましたが、外地勤務を理由に帰国しなかったところ、現地の軍から兵隊検査の通知があり現役で甲種合格。第1志望は海軍でしたが昭和18年1月10日に陸軍に現役兵として入隊しました。ところが検査を受けた192人のうち1人だけ満州国ハルピン(白系ロシア人が多く住む大都会)の関東軍戦車部隊(満州第366部隊)入隊となったのです。入隊後3ヶ月間は新兵訓練で氷点下38度にもなる極寒のなか演習が続きました。それでも日曜日には希望者には外出が許可され、息抜きもできました。そうこうするうちにマラリアにかかり、牡丹江の陸軍病院に入院、2週間の闘病生活後、長春(新京)の戦車部隊に転属となります。

  ◇突然、ソ連が侵攻◇

  部隊が旧ソ連との国境の黒龍江省克東県付近で演習中の昭和20年8月9日、突然、ソ連軍が侵攻し交戦状態となりまた。ソ連軍は85ミリ砲を装備した最新鋭のT34 戦車を中心にした大軍団なのに対し、岩本さんの隊は57ミリ砲または47ミリ砲装備の9 7式中戦車主体のたった4両。撃ち合っては犬死となるため中隊長の指示により部隊はただちに撤退を開始、南下してハルピンまで戻ったのです。途中,昇平満蒙開拓団(大阪出身の人が多い)の女性、子供、老人約200人を収容、さらに軍自動車廠と交渉しトラック40台を得ました。中隊長は「お前たちは全員、日本に帰す」と訓示し、階級章をはずさせました。中隊長は掌握していた約190人の兵を車に乗せてさらに南下。車には燃料、日本紙幣、食料、塩、酒、甘味料が満載されており、夜間は照明を落としての強行軍が続きました。時折、ソ連軍と撃ち合いながらの南下です。

  ◇中隊長が丸腰交渉◇

  最初の大きな危機が訪れたのは通化省通化に入ったとき。通化には八路軍(共産軍)が終結している、との情報が入りました。約200人程度いるという情報です。中隊長は「交戦は犬死するだけだから俺に任せておけ」といって丸腰で単身、八路軍と交渉。車3台と引き換えに無事、通過に成功しました。南下途中、点在する日本人部落は崩壊し、略奪の嵐に吹き荒れていました。女性は皆、丸坊主になって男性を偽装。赤ちゃんを抱き、床下に隠れるなどして難を逃れた女性もいました。しかし部屋においていた貴重な日本刀などは奪い去された、といいます。内地から徴集された軍馬が飼い主もなくさ迷っている姿が散見され、あわれを誘いました。撤退行は次第に条件が悪くなってきます。

2010年7月25日日曜日

中隊長の英断で百数十人が無事帰国

、  ◆満州最北端から釜山まで大撤退行 その1
   
 「シベリア抑留」8回の連載はいかがだったでしょう。ソ連がいかに国際法を無視し残虐行為をしたことがよく分かったと思います。ソ連参戦から間もなく65年が経とうとしています。あの第二次世界大戦に遭遇した多くの人々が鬼籍に入りつつある今、当時の体験を残しておかないと永遠に忘れさられてしまうことが余りにも多いと最近、感じています。満州で戦った日本兵はそのほとんどがソ連に抑留され、想像を絶する過酷な強制労働と極寒、飢えで多くが死亡しました。また連行された軍人、一般民間人、満蒙開拓団、青少年義勇軍、女性54万人余りがいまだ生死不明、未帰還なのです。そうしたなか中隊長の英断で、武装解除前に南下行動に移り、満州東部方面の佳木斯(ジャムス)、寧安経由で朝鮮国境の図們江(朝鮮語、豆満江)を渡って朝鮮に逃れ、抑留を避けられた中隊もありました。中隊長の英断で百数十人が無事帰国できたのです。朝鮮では中隊を解散しての撤退行となったのですが、その途中にソ連の捕虜となり、決死の脱走をして無事、日本に帰国した兵士の一人の記録をここに残したいと思います。昔、「大脱走」というアメリカ映画がありましたが、あの映画なんてこの実話に比べればまさに、月とスッポンの感じがします。軍命令に捕らわれずこういう生き方をした日本人もあったということを知っていただきたいと思います。

  その兵士は鳥取市在住の岩本邦男さん(85歳)。残念ながら岩本さんは仮名で、この記事に出てくる人たちはすべて仮名です。現在は内外の法的責任を問われることはありませんが、当時の各国法規では敗戦国の日本人という立場では触法行為になる可能性もあり、岩本さんの強い希望により仮名としました。しかしすべて実在の方々であることを明記します。

  ◇楽しかった青春時代◇

  岩本さんは学業終了後、神戸製鋼の子会社大日本塩業(本社・東京蒲田区・現大田区)に入社、引き続き朝鮮・満州国境沿いの朝鮮側鴨緑江河口にあった新義州の工場で、海水からマグネシュウムを採取する仕事に携わっていました。マグネシュウムは飛行機の材料になり、貴重な資源だったのです。仕事はおもしろく給与も十分にあり、日曜日にはよく鴨緑江を越えて満州・丹東市(安東市)に遊びに行き中国料理を食べたりしていました。両岸の税関職員たちと仲良しだったので、通関は大目にみてもらい、二頭立ての馬車で通境したといいます。楽しい青春時代だったのです。現在、北朝鮮の首都である平壌(ピョンヤン)にも大同江近くに社宅があり、よく出張で泊めてもらっていました。その時の経験が後の自分を救うことになるのです。

2010年7月24日土曜日

破られた日ソ不可侵条約

◆シベリア抑留 その8

  ソ連は参戦時から大きな国際法規違反を犯しました。日本とソ連は日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)を結んでおり、相互に戦争はしない約束だったのです。この条約があったからこそソ連は対独戦に専念でき、日本は対米英戦に踏み切れました。この条約の自動延長を行わないとソ連側から廃棄通告してきたのが、対独戦に目鼻がつきだした終戦4ヶ月前の4月5日。在モスクワの佐藤尚武駐ソ大使は条約の規定に「廃棄通告は期間満了の一年前」と記されてあるので、この点をモロトフ外相に質すと「条約の失効は一年後のことになる。ソ連の中立義務に変化はない」と答えました。ソ連は一年間の中立義務を自ら認めているのです。

  それを無視して満州の広野にソ連軍が侵攻してきたのは、昭和20年8月9日午前零時。その一時間前にソ連は宣戦布告を佐藤大使に通告しましたが、佐藤大使からの至急電報はなぜか外務省には届かす、日本首脳は9日になってから同盟通信の配信でやっとソ連の参戦を知ったのです。在京のソ連大使は何ら日本政府に通告しませんでした。もちろん関東軍は完全な不意打ちをくらったわけで、ソ連が奇襲攻撃を成功させるため電報の妨害工作をしたのでは、という見方が現在では確定的です。ソ連はどこまでも卑劣な国家ですね。
  
  ◇行方不明者54万人余

  アメリカの圧力もありソ連は昭和21年暮れに抑留者の日本送還に同意、同12月19日に締結された「日本人引揚に関する米ソ協定」によって開始された抑留者の送還は、昭和22年に本格化しました。昭和25年4月22日にソ連側から47万1000人の送還をもって完了したと発表されました。実際には昭和31年12月26日に最後の引揚者1025人が帰国しました。引揚者の総数は47万3000人余りとなり、厚生労働省のいう死亡者約6万人を除いてもまだ54万人余もの人が行方不明者となっています。

  日本政府はソ連の後継国であるロシアに対し▽国家としての正式な謝罪▽抑留者への賃金支払い▽死没者への補償▽個人財産の補償▽行方不明者の実態調査―を強く求めるべきだと思います。ロシアは石油、天然ガス資源を十分持っており、これを担保にすれば、支払い能力は十分にあります。これらを実現してこそ祖国に帰りたいと思いながら死んでいった抑留者への真の供養になるはずです。両国政府の真摯な対応を心から望みます。

                    シベリア抑留 終わり

2010年7月23日金曜日

明白な国際法違反

◆シベリア抑留 その7


 いかに占領軍であろうと一般民間人を自国に連行して強制労働させる権利は国際法上存在せず、ソ連の行為はまったく許されるものではないのです。特に相手国が降伏している以上、民間人は保護し相手国に早期に送還するのが国際法の精神といえるものです。

  ◇労働力確保が目的

  ソ連が日本人を強制労働につかせた理由は労働力確保にあったことが、ソ連崩壊後の公文書公開で明らかになりました。これはドイツ系将兵に対しても同じでした。対独戦勝利後のソ連は働き手の多くを戦死させ、国土は荒廃していました。労働力がいくらあっても足りぬ現状にありました。そこでスターリンの命令によって敗戦国日本とドイツ系の将兵、民間人を強制労働につかせたのです。日本だけでなく200万人ともそれ以上ともいわれるドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、ポーランド、さらに大戦初期に併合されたバルト三国からも捕虜がシベリアに送り込まれていました。このほかソ連国内で反体制分子と疑われた人物や、共産党内の権力抗争に敗れた者なども混じっていました。

  ◇労働者農民兵虐待の共産国家

  もちろん賃金などはびた一文支払われませんでした。しかしこれはポツダム宣言の「日本国軍隊は、完全に武装解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」をはじめ、人道的扱いと労働賃金の支払を明示したヘーグ(ハーグ)陸戦条約、1949年ジュネーブ条約に明確に違反しています。いくら労働力が不足しているといっても、戦後の強制労働は言い訳にはなりません。共産主義を標榜しながら大半は農民、労働者出身の捕虜を虐待したその罪は永遠に消えません。ソ連は真実の共産主義国家ではありませんでした。民族主義、官僚主義国家の色彩が強かったのです。前線のソ連将兵に対しソ連軍指導部は士気を高めるため「日露戦争敗北のうらみをはらせ」とけしかけたのです。この結果、降伏した日本軍を攻撃するという前代未聞の事態が各地で生じました。

  ソ連以外の第2次世界大戦戦勝国は米英、中国とも日本兵捕虜、民間人を船舶が手配でき次第、早期に帰しています。大戦終了後,国共内戦に入った中国では困難な事情があったにもかかわらず中共軍(現・中華人民共和国軍)は自軍兵士よりいい食事を日本兵捕虜に与えていたし、国府軍(現・中華民国軍)は蒋介石総統が「怨みを報いるに恩をもってせよ」と布告を出し、早期帰国をうながしました。

  ◇米英、労働証明書を発行

  南方から帰還した元捕虜には、米英発行の労働証明書に基づき抑留中の労働に対する賃金が大蔵省より支払われています。ソ連だけが捕虜を最高十年間もただで奴隷のように酷使し、労働証明書も発行していません。国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰れば、その捕虜の所属国が支払うことになっています。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)にもとづき賃金を支払いました。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府はそれを理由に賃金を支払いませんでした。1992年以後、ロシア政府はやっと労働証明書を発行するようになったそうですが、日本政府はいまだに賃金支払を行っていません。

  今年6月、ソ連により過酷な労働に従事させられた日本人抑留者に特別給付金を支給する特別措置法が国会で成立してしましたが、この労働証明書との関係が明確でありません。ロシアが発行しているという労働証明書も1992年以前に働いている人も対象になるのか、現地死没者、帰国後死没者はどうなるのか、労働証明書は抑留者全員に自動発行されるのか、申請者に限られるのか、抑留者、抑留者家族には一切伝えられていません。日露両政府の親身になった対応が必要とされます。

2010年7月22日木曜日

避難民を無差別殺戮

  ◆シベリア抑留 その6

 抑留ではありませんが民間人の中には逃避行の最中、ソ連軍に襲われ殺されたり凌辱を受けた女性も多かったのです。またソ連側が食料供給など保護措置をとらなかったことから飢え死にした人が続出、東満州では避難路に延々と日本人死者の屍が放置してあったといいます。なかでも満州奥地から避難した開拓民たちは避難しきれずに路中で集団自決したり、ソ連軍や匪賊と化した地元民により、略奪、暴行、殺人、強姦などの仕打ちを受けました。これについて内科医の西岡昌紀さんは自著「ソ連軍が満州に侵攻した日から60年目の日に」で、

  ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を破って、満州に侵攻した。そして、侵攻した先々で、子供や老人を含む、多くの日本の民間人を、無差別に殺戮したのであった。又、子供を含む、多くの日本人女性を、やって来たソ連軍の兵士たちは、至る所で、強姦、輪姦したのであった。その際の悲惨な状況は、原爆とは形が違ったものの、この世の生き地獄と呼ばれるべき物であった。--ソ連崩壊後も、日本のマスコミの多くは、何故か、このソ連軍の満州侵攻による悲劇を語りたがらない。若い人たちは、本書を含めた単行本を紐解いて、当時、日本の子供や女性が、ソ連軍によって、どれほどむごい目に遭わされたかを知って欲しい。
と記しています。

  ◇財産すべてを奪われる

  また私個人のことになりますが、父が召集されたあと終戦となり、避難先の日本人施設はソ連兵に襲われて時計、現金、宝石など財産といえるものは残らず奪われました。その後、母は生まれたばかりの妹を背負い、4歳になった私の手を片手で握り、もう一方の手で持てるだけの荷物を持って奉天から脱出、大連に向け多くの避難民と徒歩で避難を開始しました。食料は私が背負っていた岩塩だけで、畑のトウモロコシなどを食べて飢えをしのいだらしいのです。200キロ歩いたところで奉天に追い返され、その後、また南下、やっと無蓋貨車に乗ることができ、大連の収容所に入ることができました。途中、満人から私たち兄妹を売れ、と迫られましたが、母はダメ!と拒否、私は残留孤児にならずに済みました。拒否して苦労して日本に連れ帰ってくれた母には感謝の気持ちでいっぱいです。(以上の記録は母の話をもとにしたもの。私の記憶はほとんどありません)

  ◇半強制的に堕胎手術

  それから引揚関係者が意図的に書き留めを避けている問題があります。私もこのことは書きたくなかったのですが、書き留めておかないと永久に忘れ去られてしまうのであえて書きます。引揚がほぼ終了してから60年間という時間が時効にもなっていると思うので、書く義務があると思うのです。

  在留邦人の引揚が始まってから舞鶴、佐世保など引き揚げ港には厚生省が引き揚げ援護施設を開設しました。そこで何が行われていたか。女性を一人びとり診察室に呼び入れ、妊娠状況を検査、妊娠していれば事情を聞いて即、堕胎手術したのです。女性にとって最大の屈辱です。このあと自殺した方が何人もありました。殺された水子の数は公表されていませんが、相当な数に上ったとみられています。また引き揚げ船が入港する直前、投身自殺をされた女性が何人もいらっしゃいました。いずれも妊娠していたそうです。なんとも書くに耐えられぬ話です。ロシアの為政者に日本政府は何もいわないのが不思議です。

2010年7月20日火曜日

民間人も捕虜に

  ◆シベリア抑留 その5

 個人的なことを記すと私・松本の父もシベリア抑留兵で、満州・奉天(現瀋陽)で税務署に勤めていましたが終戦間際の根こそぎ動員で召集され、満州・朝鮮国境の守備についたところで敗戦、ヤクーツク自治共和国のウランウデの収容所で強制労働を強いられました。極寒、重労働、飢えの中で「あすは松本が死ぬ」といわれながら、なんとか生き延び帰国できました、しかし三重苦の後遺症から10余年後には死亡、母が保険外務員の仕事をして一家を支えてきました。両親に心より感謝します。 合掌

  ◇縦穴式収容所も

  シベリアの収容所は、抑留者がテント生活をしながら、あり合わせの材料でその土地の状況に合わせて作った粗末なものが多く、このほかドイツ人捕虜が入っていた収容所跡地、ロシア人の囚人が入っていた刑務所の利用もあったようです。短期の移動にはテントも利用されました。日本人の抑留者によって作られた収容所建物は、縦穴式、半地下式、盛り土箱型が多く、これでは極寒は過ごせません。条件の良かった工場近辺では家屋型もありました。都市周辺の既存の建物は将校収容所に当てられました。建物の中は立って歩けない低さのものから2段、3段の蚕棚式まで種々雑多だったようです。最初の一年は旧軍隊の階級制度が収容所でも残り、上官がストーブ近くの良い場所を占めるケースが多かったのです。暖房が十分届かぬ兵は食料不足も加わり、厳寒期に多くの死亡者を出ました。

  ◇民間人女性も捕虜に

  問題は本来、捕虜といえない捕虜の存在です。ソ連占領地では日本軍将兵だけでなく、官吏、会社員、商店主など民間人、それに満蒙開拓移民団員が片っ端からソ連軍に捕まり強制抑留されました。さらには日赤看護婦、軍関係の事務職員だった女性も含まれていました。性的暴行を受けた女性も多く自決者が相次ぎました。日ソの停戦交渉ではソ連は在留邦人の保護を行なう諒解が成立していたにもかかわらずの拉致です。ハーグ陸戦協定をはじめ国際間の交戦規定では民間人の捕虜は禁じられており、ソ連はこれについて一切の釈明をしておりません。

  ◇死亡者37万4000人説も

  これまで厚生労働省の調べで死者は約6万人とされてきましたが民間人を含めると少なすぎるという指摘がありました。近年、ソ連崩壊後の一部資料公開によって実態が少しずつ明らかになりつつあります。日露双方の資料を突き合わせると終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6000人の日本人がいましたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られています。200万人以上(ワレンチン・アルハンゲリスキーの著作およびダグラス・マッカーサー元帥の統計より)との説もあります。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千人で、事実上、約34万人の日本人が死亡したといえます。また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もあります。

  ロシア側のより積極的な資料公開が非人道的措置を取ったロシアの義務といえましょう。日本政府は資料の公開を求めてもっと積極的にロシアにアプローチしなければなりません。その点、ドイツは個人個人の名前を挙げてしつこくロシアと交渉し、相当数解明しているそうです。日本政府の淡白さが残念でなりません。

ミイラのような餓死者

◆シベリア抑留 その4

  これについて捕虜だった故岡本輝雄さんは「MRジャーナル」に「シベリア抑留の生々しい記録」と題した遺稿を寄せられました。オーマイニュース掲載時に、掲載ご許可をいただきましたのでその一部を紹介すると

  ◇1日に10人を越える死者

  半ば餓死状態で死亡した兵隊たちは、一糸も纏わず遺体置き場に野ざらしにされた。それは、骨に皮がくっついただけのミイラのようであった。

   しかし気が付くと、生きている私達の様相も死者とあまり変わらなかった。私自身もあばら骨が胸にはっきりと浮かび上がっているのを見てぞっとする。

  作業に駆り出されて途中で意識を失って死ぬ者も現れる。このラーゲル(収容所)に来てから一ヶ月も経たないのに、私達の収容されている建物の死者は三十名を越えた。

  当初は、死者が出た班でその埋葬を担当していたが、もうそれでは追いつかなくなってきた。埋葬場はラーゲルから少し上の小高い丘を切り開いて作られていた。土は固く凍っているので、 立ち枯れの木を伐採して運び、積み上げて一昼夜ほど燃やす。土が融けて軟らかくなったところを見極めて、素早く掘って死体を埋める。

  はじめは、一人づつ埋められて、そこに立てられた杭に死体番号と名前が書かれていた。だが、このラーゲルに来て一ヶ月も過ぎた一九四六年(昭和二十一年)一月になると、死者の数は一日に十人を超えるようになり、一人づつ埋めていたのでは処理できなくなった。

  いかにすさまじい収容状況であったか絶句するだけです。

 ◇松葉を食う◇

  北朝鮮・平壌で捕虜になった元鳥取県議会議長の井上万吉男さん(米子市・全国強制抑留者協会常務理事)は私の取材に「ウラジオストックに連行された。黒パンなんてそんないい食事は出たことがない。コーリャン、豆、燕麦の雑炊だった。ひどいときは小豆の塩煮を1月も食べさせられた。入ソ2年目にはほとんどの抑留者が重労働と食料不足により栄養失調になった。中でも青物、野菜はは一切支給されず、ビタミンCの不足から体中に紫色の斑点ができ、一人歩きもできない状態となった」と話された。

  炊事班長だった井上さんは収容所近くでは青物は松葉しかないことから松葉を採ってきて雑炊に入れて皆に食べさせ、やっと斑点が薄くなったそうです。松葉で飢えをしのいだわけで、ソ連の過酷な待遇がしのばれます。

2010年7月19日月曜日

極寒、重労働、飢え

 ◆シベリア抑留 その3


  ソ連は捕虜を1000人程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込みました。捕虜はソ連兵から「ダモイ(帰国)」といわれ、ナホトカ経由で祖国に帰れることを思っていました。ところが行き先は告げられず、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望した人が多かったのです。「シベリア送り」は、ソ連国内でも反革命分子とされた人間に課されたもので、ソ連建国当初から行われていました。日本人捕虜も多くがシベリアの収容所に抑留され、氷点下40度にも達する極寒のなかで、厳しいノルマを科せられた重労働が待っていました。

 ◇3重苦の捕虜収容所◇

  労働は鉄道建設、森林伐採、鉱山採掘、農業など肉体を酷使するものでした。しかも食事は小さな黒パン一切れと岩塩スープといった過酷なもので、ある将校が自分たちに出された食事のカロリー計算をしたところ生存に必要な量の30%しかなかったといいます。その抑留期間は2年から4年、長い人は10年も収容され、飢えと寒さの中で 強制労働に従事させられた日本兵は次々死亡。全体の1割に当たる6万人が帰らぬ人となりました(厚生労働省把握分)。幸い帰国できた人も三重苦の後遺症のため帰国直後に次々死亡、ほぼ同数の6万人が犠牲になったとみられています。実際は約34万人が現地で死亡したと推定されます。

  数字がこんなに違うのは連行が満州だけでなく南樺太、千島諸島、歯舞色丹、北朝鮮、内蒙古などソ連が侵略した全域に及んだこと。軍人だけでなく開拓民、看護婦、電話交換手、会社員、商人など男女を問わず、子供まで含まれることです。また戦闘中や連行途中に死亡した人も多く、開拓民のように集団自決した人も含まれます。要するに不法なロシア侵略による犠牲者は少なくても34万人いるということです。今となってはこれらの方々がどこでどう亡くなったかは調べようがありません。

  ◇全滅した収容所も◇

  特に死亡者が多く出たのは、バム鉄道(バイカルとアムール地区を結ぶ第二シベリア鉄道)の建設・維持工事に駆り出された捕虜で、シベリア鉄道よりはるかに北極圏寄りにあり、苛酷な労役と極度の寒さ、栄養失調から倒れる者が続出しました。死者が出るたびに欠員補充が絶えず行われたため、死者数など実態の確認が現在でも分かっていません。なかでもタイシェットとブラーツク間では、鉄道沿線の両側に収容所が目白押しに建てられ、死亡者の比率が最も高い地域となりました。研究者の調べでは死亡率60%という悲惨な収容所もありました。バム鉄道が今日あるのはひとえに日本人捕虜によるものといえましょう。体力がないため伝染病の発生もすさまじく、ヨーロッパロシアでは事実上、全滅した収容所もあったそうです。

2010年7月18日日曜日

民間人も捕虜に

  ◆シベリア抑留 その2

  優勢なソ連軍に対し関東軍は対ソ作戦を満州全土の三分の二で反撃しつつ後退、首都新京南東の長白山地を背にした通化に軍司令部を移し、満州残り三分の一でパルチザン戦を展開するという持久戦作戦を描きました。この作戦は6月14日に関東軍の各方面軍に示され、9月下旬までに全軍の移動・配備が行われる計画でした。しかし8月8日のソ連軍侵攻によって日の目をみないで終わります。

  満ソ国境の東、北、西の三方向から侵攻してきたソ連軍は当時、世界最強といわれたT34戦車を先頭に装備の不十分な日本軍を各地で撃破、あっという間に首都新京に迫まりました。これに対し日本軍は地雷を背負った兵士が敵戦車に飛び込む、という特攻作戦を展開、ほとんどが敵戦車に行き着くまでに自動小銃で撃たれ戦死していきました。関東軍はゲリラ戦に戦法を変更しようとしましたが8月15日の玉音放送を迎え、大本営から戦闘停止命令を受け、戦闘行動を中止。ソ連軍に降伏しました。ただし、一部地域においては、劣悪な通信事情や激しい戦闘状況もあって、8月後半まで戦闘が続けられたのです。ソ連軍も終戦を知りながら前面にいる日本軍と協議しようとせず、攻撃を続けた師団が相当数あったようです。これもその理由をソ連、ロシアは開示していません。悲劇はその直後から始まったのです。

  ◇日本に送らずシベリアに強制連行◇

  占領地域の日本軍はソ連軍によって武装解除されました。日本兵はダモイ(帰国)というロシア側の説明で日本に帰国できる、と思ったのですが、関東軍首脳を手始めに、続々とシベリアに送られました。さらにウラル山脈を越え遠くポーランド国境近くまで連行された部隊もあり、全ソ連に分散収容されたのです。一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着していますが、実際にはモンゴルや中央アジア、北朝鮮、ヨーロッパロシアなどにも送り込まれていました。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が朽ちて残存しているそうです。

  彼らの墓地も各地に存在していますが、いまも整備されているものは極めて少ないのです。大部分の墓地は、遺骨の所在も分からないまま原野と化し、山林や農地になったところも少なくないのが実情です。墓地数も埋葬人数も不確定のままです。昭和50年に引揚援護局は、ソ連地域の州別日本人死亡者の調査を発表したが、それによるとソ連全土の日本人墓地数は332カ所、埋葬人数は4万5575人で、少なく見積もっても1万5000人以上が不明のままなのです。

  強制抑留は軍人だけではありませんでした。国際条約で禁止されている民間人の強制連行も実施、軍民含めて約107万人が連行され、行方不明者を含む推定死亡者は約34万人にも達すると言われています。行方不明を死亡と換算するなら実に死亡率31.8%という驚異的な数です。実情を過小評価しようとする厚生労働省が直接掌握しているだけでも約60万人の日本軍民がシベリアに抑留され、重労働、極寒、栄養失調でその約1割、約6万人が死亡したとされています、帰国できた人も厳しい後遺症からほぼ同数が相次ぎ死去したと推定されています。ロシアは自分たちのやったことを隠さず明らかにする義務があります。

2010年7月17日土曜日

ソ連、不可侵条約を破棄して侵略

 ◆シベリア抑留 その1

   第2次世界大戦後、満州、北朝鮮、樺太などからソ連に強制連行され、極寒のシベリアやモンゴルで過酷な労働に従事させられた日本人抑留者に特別給付金を支給する特別措置法が国会で成立してから1カ月。参院選の陰に隠れてあまり報道されませんでしたが、抑留者遺族などからは「死没者は対象にならないのか」と各政党に抗議の声が上がっています。これについては今後、政府と各政党の対応を期待したいのですが、なぜ強制抑留という悲惨な事態が発生したのか、残念ながら60代以下の国民はほとんどその事実を知りません。

  私の父は大戦中、満州で税務署の仕事をしていましたが、日本男子根こそぎ動員で召集され、朝満国境付近で捕虜になったシベリア抑留兵です。極寒、飢え、重労働の三重苦による死の直前、やっと生還したものの、帰国後、10年あまりで後遺症により死亡しました。父不在の中、私自身も妹とともに母に連れられ、満州の荒野をさまよい、あやうく残留孤児になるところでした。父が、アメリカや中国の捕虜になった人たちのように終戦後、そのまま帰国できていれば我が家の戦後の姿は大幅に変わっていたでしょう。

   強制抑留は民間人を含めて約107万人が連行され、行方不明者を含む推定死亡者は約34万人にも達すると言われています。私は昭和19年7月上旬、4日間の日程でロシア・ハバロフスク市を訪問、シベリア抑留日本兵犠牲者の墓参と犠牲者の解脱供養法要に参加してきました。

  「シベリア抑留」と言われても、いまや知らない人が圧倒的多数になりつつあります。このような悲惨な事実が、なぜ起こったのでしょうか。関係者が少なくなりつつある今、その実情を皆様に紹介するのが「国際派日本人の基礎教養講座」の任務だと思います。以下の文は私が昭和19年から20年にかけインターネット新聞「オーマイニュース」と郷土誌「季刊鳥取」に掲載したものを基に、新資料も含め全面的に書き換えたものです。

   ◇ソ連軍、無条件降伏の日本軍を攻撃◇

  第2次世界大戦末期の昭和20年8月8日深夜、ソ連は日本に対して一方的に日ソ不可侵条約を破棄して宣戦布告しました。その宣戦布告が日本に伝わらないよう、モスクワの日本大使館の通信を遮断し、1時間後に満州を奇襲攻撃しました。日本は同15日にポツダム宣言受諾を発表、無条件降伏したしもかかわらず、ソ連は同16日には南樺太、同18日に千島列島を武力攻撃、自衛上、抵抗した日本兵に無益な戦死者を続出させました。無条件降伏をした国家の軍を攻撃するという戦争史に例をみない残虐行為についてソ連、ロシアとも関係文書をいっさい公開していません。一説には日露戦争で負けた腹いせをした、と伝えられています。

  ソ連ははドイツが5月7日に無条件降伏すると、密かに兵をシベリア鉄道で満洲国境に送り、条約違反を知りつつ対日戦に参加する準備をしていました。日本側もソ連の動向に着目。7月1日、大本営が入手した情報によると、満ソ国境の周辺に展開されたソ連軍は約55万人。戦車2000輌、飛行機4000機、各種火砲7000門。しかもシベリア鉄道で大兵力の移動が続いていました。しかし日本側の情報分析は甘かったのです。実際に国境を突破したのは兵員157万人、戦車自走砲5500両、飛行機3400機、各種火砲火2万6000門(ソ連側の戦後公式文書)。飛行機こそ日本側の予想を下回ったものの圧倒的兵力でした。

  対する関東軍(満州にいた日本軍)の配備兵力は、質、量とも貧弱で兵員は半数以下の70万人。在満日本人男子を根こそぎ動員した高齢者師団が多く、小銃も10人に1丁という低装備部隊もありました。精鋭師団を南方作戦に抽出され、師団総合戦力は精鋭師団の30パーセント程度まで低下していました。特に戦車は装甲の薄い軽戦車を主体にわずか200両、飛行機も200機程度しかなく、火砲にいたっては1000門ほどしかありませんせんでした。劣勢は当初から予想されたことだったのです。

2010年7月16日金曜日

マスコミとは1線を引きます

  ◆用字用語の使い方

  現在、各新聞社や通信社、テレビ局、雑誌社などはそれぞれ用字用語集を出して、それにのっとって編集しています。これは歴史的経過があり、それはそれでいいのですが、たとえば樺太(からふと)のことをサハリンというなどおかしな表現があります。また朝鮮半島の分断国家のことを韓国といったり北朝鮮といったりしています。外国からの圧力や国内各勢力からの攻撃を避けるため、いつの間にか本筋をはずした表現が見られるようになりました。

  また政治や国際関係、宗教などとは無関係なはずの米をコメとカタカナ表示したり、杉をスギと書いたりします。生物学会が何かの理由で動植物名をカタカナ表示するのに合わせた、と先輩記者から説明を受けました。日本の固有領土、樺太をロシアが有効支配しているからといって、ロシア名のサハリンとするには無理があります。生物学会の専門的取り決めを社会通念として採用する必要は少しもありません。放っておけば朝鮮半島のことを韓半島にする動きも出てきそうです。「国際派日本人の基礎教養講座」ではこうしたおかしな表現は原則として採用しません。

  たとえば社会通念になってしまった「太平洋戦争」ですが本来の「大東亜戦争」とします。太平洋戦争は米軍の呼称で日本では「大東亜戦争」と呼んでいました。米軍は大西洋と太平洋の両洋で第2次世界大戦を戦っており、対日作戦を太平洋戦争としたのです。先の世界大戦は「第2次世界大戦」が各国共通の表現ですが各国とも主に戦った場所、戦争の意義で固有の名称をつけています。たとえばロシアは「大祖国戦争」と呼称しています。

  日本の占領主体国はアメリカでしたから日本はアメリカの呼称にしたがって太平洋戦争を使うようになったのです。ソ連が占領主体国なら大祖国戦争と呼称したかもしれません。いずれも日本人の主体性のなさが間違った呼び名を慣例化させてしまったのです。日本が戦ったのは太平洋ばかりではありません。ビルマ、インドネシア、中国、さらにはアリューシャン列島と東アジア一円に広がっていました。とすれば「大東亜戦争」がやはり実体を示す呼び名としてふさわしいのではないでしょうか。これは右翼でも左翼でもない日本人として当たり前の表現です。

  エベレスト山に例をとりますとチベット語ではチョモランマ、中国語では珠穆朗玛峰、ネパール語ではサガルマータです。変な話ですが英語の正式名称はエリザベス山と聞きました。エベレストは英測量局の局長名、エリザベス山は初登庁時の英国女王名です。新聞協会には現地語優先主義があるようですが、4カ国も関係する以上、慣例のエベレスト山でいいのでは、と思います。

  また動植物名では当用漢字があればそれを使うのが社会通念でしょう。わざわざカタカナ表示にする必要はないと思います。当サイトでは本来あるべき姿の名称で書いていきたいと思います。これについては反発、抗議、同感など各意見があると思います。どうぞその意見をお寄せください。お待ちしています。

2010年7月15日木曜日

現在の繁栄は戦没者のおかげ

  ◆自己犠牲の精神が植民地化を防いだ


  現生人類のご先祖はたった一人の女性で、その女性は東アフリカの大地溝地帯に今から15-20万年まえに誕生、その子孫でバイカル湖付近に達した一族が南回りと北回りで日本列島に到着、縄文人となったこと。中国・長江付近にいた稲作民族が漢民族に追われて日本列島に逃げ弥生人となり、縄文人と合体して現在の日本人となったことを書きました。そして異論はありますが神武天皇が国家を発足させたまでを書きました。これで日本人とは何者なのか、そのルーツが分かったと思います。さらに騎馬民族征服論、金属器、古代宗教などを書きたいのですが、それは専門書が山ほど出ています。「国際派日本人の基礎教養講座」としては日本人の出発点が垣間見えたところで、現代につながる日本人のことを書きたいと思います。

  本日15日夕、東京・千代田区の国立千鳥ガ渕戦没者墓苑で南太平洋戦没者供養の法要が営まれました。これから終戦記念日の8月15日に向け全国各地で戦没者供養のもようしがあると思います。その席で必ず言われるのが「皆様(戦没者のこと)の尊い犠牲で今日の日本の繁栄があります」という慰霊の言葉です。ところがこの言葉を聴いて「なぜ戦没者が今日の繁栄につながるのか、戦争をしていなかったらもっと繁栄していたかもしれないのに」という方が結構、年配の方々にもいらっしゃいます。これについて本日は書きたいと思います。

  米英など連合軍が対日戦略を本格化させ、日本の降伏が見通せる段階になったとき、日本をどのような形で占領するか、論議されました。当初、計画されていたのは完全な植民地にし、皇族は皆殺しにして根絶やしし、国民から教育を取り上げ、産業は農業を除いて禁止、国民を事実上隷属化しよう、というものでした。イギリスによるビルマ占領のイメージがあったようです。ビルマでは王族男子は皆殺しになり、王女はインド人下士官の妻に落とされて王族は壊滅しました。国民はモノカルチャー(単一栽培)の半奴隷になったのです。

  ところが連合軍が日本列島に近づくにつれ、日本軍のすさまじい反撃に逢いました。物資がないのに日本軍は自らを犠牲にした精神性の高い戦闘を展開しました。特に航空機、人間魚雷を使った特攻作戦は米海軍に恐怖感がまん延しました。この結果、「日本を占領しても天皇制を廃止したり、教育を奪えばすさまじい抵抗が起こり、ゲリラ戦で占領軍は30万人以上の犠牲が出る」との結論が出たのです。

  そこで天皇制は残し、教育は米英に都合のいいものに変え、産業は航空、原子力を除いて認める、というものに変えました。体制に従順な日本人は「負けたのだから」とこの施策を受け入れ、ゲリラ戦は発生しませんでした。もし日本軍が命を顧みない、自己犠牲をいとわない精神性の高い戦闘をしなかったら連合軍は日本人を半奴隷化したでしょう。現在の繁栄はありえなかったのです。戦後、日本人は軽武装という負担の軽さを生かし、死に物狂いで働いて今日の繁栄を勝ち取りました。その意味で戦没者の犠牲が今日の日本を築いた、といえるのです。戦没者の奮戦がなかったら現在の日本はないのです。戦没の皆様に合掌しましょう。

                               合掌

  米軍の占領政策のいやらしさはまた書きます。

2010年7月14日水曜日

一つ屋根の下の大家族

 ◆国家成立、平和な詔

  異民族同士がぶつかりあっても比較的穏やか血縁関係が生じ、一つの民族として結合していった日本人。世界史の中では稀有の存在といえるでしょう。

 縄文人は陸地で陸稲を育てていました。弥生人は水辺で水稲を育んでいました。縄文人は森で狩猟採集の経済を営んでいました。弥生人は森を水源と考え尊んできました。縄文人は潜るなどして海から食物を得ていました。弥生人は漁労民族でもありました。両者に共通しているのは自然との共生でしたが、システムは少しづつ違いました。競合関係にありましたが、互いに理解できる範囲内でした。両者とも「再生と循環の文明」を持っていたのです。

  アメリカでの鉄砲を持って森を切り開くピューリタンと弓矢しか持たない森の民インディアンとの敵対関係とは大違いでした。圧倒的に強い力を持つピューリタンはインディアンをだまし、インディアンを虐殺して支配地域を広げていったのです。そこでは混血も文化尊重もありませんでした。

  日本人はなぜかピューリタンを迫害を受けたキリスト教徒と捉え、神の前では人類皆平等のよき思想を持った人たち、と捉(とら)えていますが、実際は武力を背景にした差別主義者でした。というよりインディアンを人間として認めていなかったのです。人間の形をした動物、と捉えていたのです。

  その点、縄文人と弥生人は同じモンゴリアンで、足りぬところを補完できる関係を持っていました。比較的すんなり混血が進んだのです。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」の民だったのです。


    人々がみな幸せに仲良く暮らせるように努めよう。天地四方、
八紘(あめのした=天の下)に住むものすべてが、一つ屋根
の下の大家族のように仲よく暮らそうではないか。なんと、
楽しくうれしいことだろうか。



 地元民のイスケヨリ姫を后に迎えた神武天皇が即位された時の詔(みことのり、宣言、宣布)です。なんと平和な宣言でしょう。わが国が国家として始まったときの宣言なのです。よその国で他民族を征服して新国家を成立させたとき、被支配民族を含めて「一つ屋根の下、仲良く暮らしましょう」なんて宣言した国家があったでしょうか。かろうじて満州国が誕生したとき五族協和を宣言したことがあるくらいです。あの宣言も神武天皇の詔が参考になったのかもしれませんね。

  神武天皇を架空の人物とみる向きもあります。私もその説に一理あると思います。しかし神武天皇の伝承はその時代の状況を反映したもので、あのような詔が出る背景があったと思います。日本という国がスタートを切ったとき、平和を願う詔で出発できたことを誇りに思います。

2010年7月13日火曜日

現日本人を形成

  ◆比較的すんなりいった縄文人と弥生人の結合

  渡来系弥生人が九州に上陸、次第に東日本に進出したことは何回も書きました。それではすんなり先住民族である縄文人と新渡来人の弥生人は融合したのでしょうか。

  渡来人に土地を奪われる形となる縄文人たちはもちろん抵抗しました。小競り合いや集落同士の戦争はしょっちゅうあったはずです。でもこれに対し渡来人も縄文人も防衛の拠点となる環濠集落をつくった形跡がないのです。弥生人がつくった環濠集落はずっと後の時代で、同じ弥生人に対するものなのです。同族に対する備えより、異民族に対する備えの方が甘かったのです。

  渡来系弥生人は縄文人を強敵とはみていなかったようです。それは地球寒冷化により縄文人が減少しており、日本列島にいた縄文人はわずか7万5000人程度だったことも一因でしょう。それも大半は東日本に居住、九州にはまばらにしかいませんでした。当初は遭遇する機会も少なかったはずです。

  それでも渡来系弥生人集落と縄文集落が近くにあると土地そのものは競合します。弥生人が開墾するとその分だけ縄文人の狩猟採集経済に影響を与えます。小競り合いは当然発生するのです。でも両者は自分にないいいものを相手が持っていることを発見します。縄文人にとっては貴重品だった米を、弥生人にとっては入手がやや困難だった獣肉や貝を相手は持っていたのです。ここで物々交換が始まります。

また縄文人は陸稲栽培という稲作の基本技術を持っていました。物々交換を重ねるうち水稲が陸稲の何倍もの生産性を持つことを見抜きます。栽培技術が欲しくてなりません。末子相続だった弥生人の長男、次男は縄文人の持つ水田適地が欲しくてなりません。こうして長男次男たちは縄文人の娘のところに入り婿し、水田技術を集落に教えるとともに自らも水田を開墾します。娘の親は一家の長老格となり、すべてがうまく納まります。またこれによって同族同士の近親結婚を防ぐこともできました。

  こうした事情を裏付ける史料が日本書紀にあります。天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移ります。そしてその地に住んでいた豪族の娘、木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とし、その一族は大いに繁栄、その子孫は天皇家となる-というものです。

  また初代天皇に即位されたという神武天皇も奈良盆地で歩いていたイスケヨリ姫に一目ぼれし后にします。イスケヨリ姫は土地の娘でしたから縄文人の血が入っていたことは当然想像されます。

  弥生人と縄文人の共通した認識は森を大切にしたことでした。渡来系弥生人は水田かんがいに森は欠かせないことを認識していましたし、縄文人も森があっての生活でしたから両者の自然認識は一致していました。幸せな出会い、というべきです。

  異民族同士の出会いはどことも悲惨なものです。近代でもアメリカに上陸したイギリス人のピューリタントは森の民だったインディアンを攻撃、土地を奪い、それに続いた白人たちは森の大陸だった北米を綿花、小麦、牧場などに変え、自然を収奪していきました。土地を奪われたインディアンは人口が大幅に減少、小数民族になってしまいました。今では居留地で酒を飲んで暮らすしか能のない立場に追い込まれています。弥生人は縄文人と血縁関係を強める中で現日本人を形成して行ったのです。

2010年7月12日月曜日

祭器化した青銅製の武器

  ◆弥生神道の誕生

  弥生人が尊崇したのは太陽と鳥だと書きました。それは弥生の宗教、弥生神道へと発展していきます。その過程で縄文神道との融合、吸収も当然、あったでしょう。縄文神道の具体的な教義は縄文人が文字を残さなかった(文字を持っていた、という説もあります)ことから分かりません。しかしその一部に祖先崇拝があったことは間違いなく、弥生人が実感していた祖霊崇拝と合わさり、比較的簡単に弥生神道ができあがった、と想像されます。

  弥生神道は水田稲作を確実なものにしてくれる太陽と太陽を運ぶ鳥、そして水田開墾をしてくれた先祖への感謝の気持ちでした。長江付近から東シナ海を越えて日本列島にきた渡来系弥生人は舟に家族と稲籾、何種類かの作物種子、木製農耕具、それに犬、イノシシ(後の豚)、鶏を積んできました。上陸地点で水辺、沼、湿地帯などをみつけると稲を播種(はしゅ)、とりあえずその年の収穫を目指します。

  当時は推測ですが田植えの技術はまだ確立されておらず、籾を直接、湿地地帯などに播種したとみられます。いわゆる直播です。さらに畔(あぜ)をつくり籾の流出を防ぎます。籾は水深が深すぎると発芽しません。付近の土を入れて適度の水深をつくります。翌年は土を取った跡地には水路を引き田とします。また海岸べりまでうっそうと茂っていた照葉樹林を伐採、水田をつくりました。開墾前には付近の水路を十分調査、高低差などを割り出し、開墾していく地域全体の灌漑用水水路の設計をします。こうして一家、一族、一集落が食べていけるだけの水田を開墾していきました。

  この時代は末子相続でした。成長した長男、次男は新たな土地を求めて集落を出ます。そして新たな開墾者になるわけです。子孫からみると開墾してくれた先祖はまさに命の恩人で、先祖があって始めて自分がある、という思いを強くしたことでしょう。当然、祖霊崇拝につながるわけです。

  これが弥生の中期になると水田、富をめぐり集落同士、クニ同士の争いとなり、勝者は支配者となります。子孫からみるとその勝者は自分たちの立場をつくってくれた人ですから尊崇しないわけにいきません。祖霊崇拝がされに強まるわけです。

   さらに時代が進むと祖霊祭祀の対象となる墳丘墓と祭殿などの祭祀空間が生まれます。祖先が戦いに使った青銅製の武器が大型化し実用品から祭器となっていきました。武器の祭器化は武器形祭器を用いた戦神・軍事的祭儀が祖霊祭祀と合わせて社会結合の重要な構成要素となっていったことの表れといえます。この段階では、「クニ」の領土拡張、あるいは「クニ」の領土防衛といった戦略的戦いが行われるようになったと考えられます。弥生はやはり戦争の時代なのですね 。

2010年7月11日日曜日

龍を食べる鳥

  ◆水田稲作民の共通シンボル

  水田稲作民の共通したシンボル、それは稲を育てる太陽と、それを運ぶ鳥、と書きました。ではいつごろからそのような信仰ができたのでしょう。

弥生人の基になった中国・長江文明。8000年前の湖南省高廟遺跡から鳥と太陽が描かれた土器が多数出土しているのです。7600年前の浙江省河姆渡(かぼと)遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土しました。水田稲作のごく初期から守護神としてのあつかいを受けていたのです。

 以前にも紹介した鳥取県米子市と大山町にまたがる妻木晩田遺跡(弥生時代中期)の西側に、弥生中期の稲吉角田(いなよしすみた)遺跡があります。角田遺跡から6種類の絵画が描かれた大型の壷が出土したことは出雲大社の稿で書きました。その中に羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が太陽に向かって漕いでいる船の絵を描いた図柄があります。羽飾り、それは漕ぎ手が鳥になったつもりで自分を飾っているのでしょう。鳥装です。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土しているのがおもしろいですね。

  長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説があるそうです。龍は中国北方の畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、稲作・長江文明と畑作牧畜・黄河文明との争いを暗示していると考えていいでしょう。猛禽類は蛇を食べます。鶏もムカデやミミズなど細長い虫を食べます。龍を細長い生き物の象徴として考えれば鳥は龍に対抗できるのです。

伊勢雅臣氏はメルマガ「国際派日本人養成講座」で次のように書いておられます。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やま
たのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた
大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、
人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人
は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢
雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の
神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草
薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。

  私も同感です。悪=龍の水田稲作民の気持ちが反映された記録だと思うのです。

 前掲を除くここまでの主な参考資料

サイト 帆人の古代史メモ
朝日新聞各号
『龍の文明・太陽の文明』安田喜憲 PHP新書

2010年7月10日土曜日

鳥を尊とんだ弥生人

 ◆太陽を運ぶ鳥

  先日、ある高僧のご法話を聞いていましたら次のようなことをおっしゃっていました。「中国文明の二大象徴は龍と鳳凰(ほうおう)である。龍は北部の麦作地帯の象徴で、鳳凰は南部の稲作地帯の象徴だった。仏教では釈尊を守ったのが二大龍王といわれており、日本にはまさに龍の姿で伝わってきている。しかしインドではコブラみたいなもので、中国の翻訳者(ほんやくしゃ)はコブラなど見たことがなく龍と訳してしまった」。

  渡来系弥生人は長江付近から東シナ海を渡って日本にやってきました。当然、その守護神は鳳凰だったわけで、古事記の伝承にみられるとおり鳥の伝説を弥生人は豊富にもっていました。鳳凰はもともと鶏から発展したものらしく、姿かたちもよく似ていますね。弥生人たちは家畜として犬とイノシシ、鶏を連れてきました。犬とイノシシは食料としていたことが確認されています。ところが鶏は食用にした確かな証拠がありません。卵は食べていた可能性はありますが、よく分かっていません。時を告げる動物として神聖視されていただけではなかったのです。

  犬でさえ食べる弥生人がなぜ鶏肉を食べなかったのか。それは太陽信仰と大きな関係があります。種籾(たねもみ)をまき、苗床を作り、田植えをし、刈り取りをする、という、複雑な農作業をしなければならない水田稲作民にとって、太陽の運行は季節を知る基本でした。同時に太陽は稲を育てる原動力でもありました。太陽信仰が生まれたのも当然でしょう。

  その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥だったのです。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇ります。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥だと水田稲作民は感じとったのです。

 この「感覚」は日本神話にストレートに反映されました。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものでした。その子孫の案内役を果たしたのが鳥なのです。記紀によりますと神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏で、神武天皇は無事、大和にたどり着きます。日本サッカー協会のシンボルマークとしてもよく知られていますね。

  太陽神を祭る神社には必ず、鳥居があります。今では鳥居の意味がよく分かっていませんが、文字通り鳥居で鳥が留まるところと考えてもいいでしょう。古代は集落の入り口に置かれていたという説もあります。今でも雲南省の苗族の集落入り口には鳥居がある、という報告もあるそうです。水田稲作民の国境を越えた幅を感じさせます。

2010年7月9日金曜日

階級が発生

  ◆富を求め争う

  持てる者と持たざる者が明確に分けられだした時、弥生人の心の中に「富が欲しい」という、心理学で言う強い表面意識が誕生しました。それは次第に潜在意識、深層意識に広がり、その後の行動の原動力となったのです。心理学的にはそれ以前に「味を知る」という行動原理が生まれていました。当時の米は一応、水稲と陸稲に分かれていたとはいえ、今のように系統選別された品種ではなく、いろいろな遺伝子を持った雑多な稲が同時に植えられていました。1枚の水田でも、おいしい米も採れれば、まずい米もありました。権力を握った者とその一族は当然、このおいしい米を優先的に味わったのです。

  米だけではありません。たとえば1頭のイノシシが獲れた、とします。縄文時代なら狩人が最もおいしいところを食べ、あとは集落全員に平等に配られました。村長(むらおさ)といえども単純に配分を受けただけです。ところが弥生では首長にもっともおいしいところが献上され、次に集落の幹部が確保し、下戸(平民)である狩人には駄賃程度の肉しか渡らなかったのです。味を知ったことによる権力の専横です。これは雑穀、野菜、果物などすべての食物にいえました。生口(奴隷)については想像するだけで十分でしょう。

   水田という生産性の高い食糧生産機構の誕生により、生み出された余剰労働力で始まったのが工人です。当初は木製のスキ、クワ製造でしたが、朝鮮半島より金属具導入で、鍛冶職が誕生しました。鍛冶は腕前で大きく品質に差が付きます。もっとも上等な作品を確保したのが大人といわれるごく一部の支配層です。玉や貝殻加工品、衣類もそうでした。中下級品を下戸が取り、奴隷は生存に必要な最低限のものしか与えられませんでした。

  住居にしてもそうです。妻木晩田遺跡でみると平民の居住地区は竪穴住居と掘建柱建物各3~4棟の単位によって構成された単純なものです。ところが最高所に位置する松尾頭地区では、祭殿や首長の住居と推定される立派で大きな建物跡が確認されています。平民の竪穴住居とは雲泥の差の建物です。

余剰労働力は交易商人も生みました。クニの間を行き来し、それぞれのクニの特産品を別にクニに運び、利益を得たのです。貝による貨幣が使われた可能性もあります。首長やクニの支配層は当然、これらの財物を手に入れました。
 こうして富を手にする者、そこそこの生活をする者、生死ぎりぎりの生活をする者に分かれていきました。そうした社会環境の中では富、権力への強い憧れと、それを満たされぬ屈折した思いなどが人々の意識の潜在部分に溜まっていきました。

  弥生の初期は最初にその地域を開墾した人が指導者でしたが、時代が進むにつれ、これらの富や土地を武力、戦闘によって勝ち取って行った人たちが支配権を握ります。富を産む土地を実力で奪い取った支配層が地域を動かすのです。美化はされていますが古事記を読むとその辺りの背景がよく分かります。人々を動かしたもの、それは富への執着心でした。他人を殺し他国をほろぼしても富を手に入れる、まさに戦争の心です。良く言えばそれは向上心につながるのです。
この向上心が人類を大きく飛躍させたのです。たまたま戦争だけを取り上げましたが技術の開発、統治のノウハウ、哲学の樹立などみなこの向上心が背景にあります。弥生と同時に各文明誕生の地では良い意味でも悪い意味でもこの向上心が生まれました。この向上心を良い方向に導いていくのが本稿の目的の一つです。
平和な縄文の時代は約1万年続きましたが、一部にはこの向上心は感じられますが、飢えから人々を救う段階にまでは至りませんでした。弥生は戦争、階級性という犠牲を伴いながらも飢えを克服しました。どちらが良いかは読者の皆様の判断に委ねます。

2010年7月8日木曜日

土地を巡る争いが発生

 ◆世襲を強め階級が発生

  弥生時代の最大の特色は温帯ジャポニカ(水稲)を栽培したことです。長江(揚子江)付近から押し出されるように九州に移住してきた渡来系弥生人は現地で栽培していた水稲の籾(もみ)を持ってきました。湿地帯や水辺に植えますと長江とほぼ同緯度だった九州では良く育ちました。しかも最初からスキ、クワなど木製の農具を持って来ましたから農耕に不自由はありません。弥生初期から水田稲作農耕がかなり高度な水準に達していたことを物語っています。水稲は陸稲に比べはるかに生産性が高く通年保存が効きます。自然に依存した縄文時代に比べ飢えは大幅に減りました。

  水稲栽培の開始により人口が増加し、その人口を維持するためさらに水田が必要となります。収穫率のいい土地を手にしたものと、しないものとの間の格差が開き、土地をめぐる争いも起きるようになりました。さらにかんがい用の水路をどう掘削しどう管理するかが大きな問題となります。いわゆる水争いの発生です。これを調停するには権力と小規模ながら武力も必要となってきます。生産性が高いことから余剰労働力も生みだしました。この余剰労働力が支配者、交易商人、工人など専門職になっていくわけです。いわゆる支配層と被支配層、水路管理者、祭儀を司る人、職による階層、身分関係などが生じ、その職は専門性、技術、技能が必要とされることから世襲的な色彩を強めていきます。階級の発生です。

  弥生時代の日本を描いた魏志倭人伝によりますと支配層は大人と呼ばれ、一般的身分層は下戸、奴隷身分は生口と言われたそうです。こうした階層の存在を裏付けるのが弥生時代の墳墓です。弥生時代中期になるとそれまでとは異なり、多くの副葬品や墳丘などを持つ「王墓」とも言える墓が出現してきます。さらに古墳時代になると前方後円墳が出現、事実上の王制が誕生してくるのです。下戸の墓はあるかないか分からない程度のものです。奴隷になると墓らしきものも確認されていません。


  争いは初期は集落内だけでしたが、権力によって集落がまとまると、今度は集落対集落の争いが始まりました。環濠集落の誕生です。強い集落が弱い集落を次々支配下に収め、やがてクニと呼ばれるミニ国家が発生します。ミニ国家同士も争います。戦闘では金属器の剣が武器の主流となり、戦闘の指導者が次第に社会の指導者として成長し、首長としての身分を確立していったと考えられます。水田稲作農耕はこうして社会変革の原動力となっていったのです。

2010年7月7日水曜日

食料保存ができなかった縄文

  ◆平等に分け与える

  縄文時代は戦争がなかったものの気候の寒冷化には勝てず人口が減少したことを書きました。逆に弥生時代は戦争があったものの人口は着実に増えたことを指摘しました。どちらが人類にとって望ましいのか。本題に入ります。

  縄文は原則的に狩猟採集経済でした。この経済体制の欠陥は食料の保存が効かなかったことです。たとえば鹿が獲れたとします。しかし肉は保存が効きません。煮炊きを繰り返してもせいぜい保存は1週間でしょう。燻製の技術が誕生したのはもっと後世です。その集落は70人程度の住民だったとします。鹿肉は保存できないため乳飲み子を除く全員が鹿肉にあずかったのでしょう。もちろん鹿を仕留めた狩人はもっともおいしい肉を食べたはずです。もし肉が余れば隣の集落にも声をかけたかもしれません。もちろん数時間で行き来できる距離にあった場合のみですが。狩猟に貢献のあった縄文犬も内臓や骨を堪能したことでしょう。

  縄文時代は栗を栽培していたことで知られています。しかし栗は通年を通しての保存はできません。せいぜい数ヶ月です。保存できないのは貝、野草、果物など入手できるすべての食べ物についていえます。こうした社会では入手できたものはその場で集落の全員が公平、平等に食べたのです。そこには身分の上下もなく階級もなく、職による差別もありません。せいぜいもめごとを調停する村長(むらおさ)のような人はあったでしょうが、その人のみたくさん食べる、というようなことはありませんでした。

  縄文中期には熱帯ジャポニカ(陸稲)の栽培が始まります。米は保存性があります。籾(もみ)を土器に収納すれば通年保存も可能です。でも陸稲は水路を必要としません。水路を管理する権力者は不要でした。また収量が少ないため、通年保存するほどの収穫量がありませんでした。収量が少ない反面、栽培地は湿地、水辺、乾燥地を問いませんでしたから栽培地を巡る土地争いもありませんでした。

  狩猟採集の経済は集落総動員の経済でもありました。狩の時には男手総員が、栗や陸稲の収穫には集落全員が、貝や野菜採取には女手こぞって参加し、集落の食べ物を確保したのです。それらを指揮する人はせいぜい尊敬を集めるだけで特権はありません。
 
  ただ保存の効く食べ物を持っていなかったことは寒冷化にともなう土地の生産性減少には勝てませんでした。特に稲は冷涼には弱いですから、最終的に縄文の人口は減りました。しかしその減少過程においても相争った形跡はないのです。食糧不足は集落全体のことと受け止めて静かに死を待ったのかもしれません。縄文神道も争うことを戒めたのかもしれません。縄文人の自然観を人類学者は将来的には明らかにしてくれるでしょう。明日は「富」を知ってしまった弥生人について書きます。

2010年7月6日火曜日

争うが人口増大の弥生人

  ◆平和だが人口減少の縄文人


  妻木晩田遺跡が示すように弥生人はなぜ戦争をしたのか。これは現在、世界各国で戦争、紛争が絶え間ないことの基本原理につながるかもしれません。人類の破滅を呼ぶかもしれない核戦争の火種がありながら闘争を続けている現生人類。その人間の奥底にあるより良い暮らしをしたい、他人よりより多くの財産を持ちたい、豊かな生活をしたい、と思う心の原点が弥生にある感じがするからです。日本列島先住民の縄文人は争いませんでした。しかし縄文人は縄文末期、寒冷化の影響を受け人口が減少、最盛期の人口の約28%、約7万5000人程度に減りました。

  一方、弥生時代はその7万5000人から一貫して人口が増え続けその末期には約59万人となっています。戦争はしないが人口が減るかもしれない縄文、戦争はあるが人口が確実に増える弥生。このどちらがよいのかこれから検証していきましょう。


 @ご心配をかけましたが、やっとパソコンが復旧しました。やはり原因はマウスにありました。残念ながら復旧に時間をとられ本日は短い文章です。勘弁ください。

                                    清雅坊

2010年7月5日月曜日

マウスが原因かも?

  ◆パソコンが不調です

  ごめんなさい。私のやり方としてワードで原稿をつくり、それをコピーしてプログの編集面で手直しする方法をとっていますが、肝心の黒反転、コピーが消えてしまいます。どうやら5年間使ったマウスに原因がありそうです。今しばらく、お待ちください。

  合掌  清雅坊

2010年7月4日日曜日

パソコンが不調です

  ◆ごめんなさい


  ごめんなさい。パソコンが不調です。コピーができません。黒反転ができません。懸命に対策を講じています。お待ちください。


  合掌   清雅坊

2010年7月3日土曜日

高地に環濠 戦争を前提の集落

 ◆妻木晩田遺跡

私がこれまでもっとも感動的だった弥生遺跡は鳥取県米子市から大山町にかけて広がる妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)です。国内最大級の弥生集落遺跡で、面積は170ヘクタールにもなります。これは吉野ヶ里遺跡の約3倍もある広大なもので、とても全体像は把握できません。その遺跡は標高90~120メートル前後の尾根上を中心に立地し、平野部と比べると約100メートル前後も高いところにあります。竪穴住居400基、掘建柱建物跡500基、四隅突出型墳丘墓などの墓24基などがみつかっています。最西端には環壕がありました。弥生中期終わりごろから古墳時代初頭までの遺跡です。

こんな高いところに環濠まで持って、こんなたくさんの人々が防衛的に生活する、ということは周辺にそれだけの敵がいたんだな、といつも思うのです。その敵がどこにいたのか今はまだ分かっていません。妻木晩田に匹敵するような集落が近くに見つかっていないからです。見晴らしは良くても生活するのはさぞ不便だったのでは、と感じます。稲をつくるため約100メートルも降りなければならないからです。このような集落を高地性集落といいます。敵のいなかった縄文人も高地に住んでいました。洪水を避けるため高地にいたようです。狩猟採集経済では見晴らしなど高地の方が都合のいい場合もありました。しかし弥生人の場合は明らかに防衛目的でした。彼らはなぜ戦争をするのか、これから考えていきたいと思います。

2010年7月2日金曜日

安田喜憲先生のこと

◆環境考古学を創設

 ごめんなさい。4日(日)に大きな行事を抱えていて本日も帰宅が10時過ぎました。この原稿を書く時間がありません。短文で申し訳ありません。昨日、最近の参考資料を書きましたが大事な先生の著作を忘れていました。安田喜憲先生です。環境考古学の事実上の創設者といってもよく、良い意味で考古学に思想を持ち込んだ方として尊敬しています。明日も短文となるかもしれません。その場合はお許しください。先生に関わる直接の参考資料は

『古代日本のルーツと長江文明の謎』安憲田喜 青春出版社

 よろしくお願い申し上げます。

2010年7月1日木曜日

4足のワラジ

  ◆江上波夫、佐原真両先生

  ワラジを3-4足も履いていると忙しくてなりません。1番目のワラジは西に行け、といいます。2番目は東に行け、といいます。3番目は足踏みしろ、といいますー。昨日につづいて本日もやらなければならないことが目白押し。シワ寄せはこの原稿にきてしまいました。というわけで本日は前掲分を除くこれまでの資料紹介とさせていただきます。私は江上波夫、佐原真両先生が大好きなのですが、江上先生は騎馬遊牧民族が日本に来た、とおっしゃいますし、佐原先生はこなかったとおっしゃいます。両先生とも好きなものですから何とか整合性をつけたいと頭の中で論争を展開しています。おまけに最近の年代論は過去にどんどんさかのぼっていきますし、大陸の情報も欠かせません。おまけに本稿の目的は国際派日本人の基礎教養ですからいつまでも古代に関わっているわけにいきません。それにしても古代史はおもしろいですね。それでは主な資料紹介です。

 サイト 国立歴史民俗博物館
 『考古学千夜一夜』佐原真 小学館
 山陰中央新報各号
 『稲・金属・戦争―弥生』佐原真 吉川弘文館
 サイト 季刊大林
  杜父魚文庫ブログ
 『人類進化学入門』埴原 和郎 中央公論社、中公新書
 『日本人の成り立ち』埴原 和郎 人文書院
 『日本人の誕生』埴原 和郎 吉川弘文館